August 2382015

 空蟬のかなたこなたも古来かな

                           永田耕衣

語辞典によると、「空蝉」は「ウツシオミ=現臣」が転じた言葉です。よって、第一義はこの世の人という意味です。また、「空蝉の」は「世」にかかる枕詞で、「万葉集482」に「空蝉の世の事なればよそに見し山をや今はよすかと思はむ」があります。奈良時代には、はかないという意味は必ずしも持っていなかったけれど、平安時代以後は、蟬の脱け殻の意と解したので、はかないという意味になったといいます。以上、大野晋氏の解説によりました。これをふまえて掲句を読むと、二通りの読み方ができ そうです。一つ目は、「空蝉の」を枕詞として読みます。すると、枕詞の意味は考えないで読むことが常套なので、中七下五だけの意味になります。二つ目は、「空蝉」を蟬の脱け殻として即物的に読みます。すると、蟬の脱け殻は、古来から遍在しているという意味になります。それが無常観だととることもできますが、いずれも句を読みとった手応えが残りません。ただし、有季定型に納まっていて、中七以下「カ行音」と「ナ」音の韻律が調べを出しているので、口になじみやすい句になっています。何度も口ずさんでいると軽やかな気持ちにもなります。作意がどこにあるのかは不明ですが、軽みは確かです。「空蝉」は、実体として軽く、「かなた」「こなた」「古来」は、実体のない抽象語として、空っ ぽの軽さがあるからでしょうか。そういう遊びなのかもしれないし、まったく的外れなのかもしれません。なお、句集では掲句の前に「空蝉を出して来るなり高めにぞ」があり、これも意味不明です。意味不明だけど面白い。「天才バカボン」みたいなものか。なお、ここまで書き終えて、句集「後記」を読みました。「私は思った。彫刻、絵画、文学でさえ、超秀作というものは、論理思考を優に超越して、真実<在って無き>魅力を窮極とするものだ。ソレはソノ魅力が<虚空的>であるが故である、というのが現在私の生涯的決断である。」『泥ん』(1992)所収。(小笠原高志)




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