May 2452015

 女老い仏顔して牡丹見る

                           鈴木真砂女

丹は、中国では「花王」と呼ばれました。平安時代の和歌では、音読みする漢語の使用を禁じていたため「深見草」の和名で詠まれています。真砂女もこの呼び名を知っていたはずなので、少し深読みしてみます。牡丹の花の色は、紅、淡紅、紫、白、黄、絞りなど多彩です。真砂女は何色の牡丹を見ていたのか。これは、読み手にゆだねられるところでしょう。私は、白の絞りかなと思います。たいした根拠はありませんが、「仏顔して」いるので、色彩はおだやかだろうと思うからです。掲句を上五から素直 に読むと、女である私が年老いて、それは女という性を脱した仏顔になって、しみじみと牡丹を見ている、となります。しかし、これは通り一遍の読み方です。もっと牡丹を凝視してもいいのではないでしょうか。問題は、どれくらいの時間をかけて牡丹を見ていたかです。花一輪を五分間見る。写生をする人ならば、これくらいの時間はかけるでしょう。あるいは、牡丹園を歩いたならば、小一時間かけて多彩な色の牡丹を見たことでしょう。いずれにしても、深見草という和名が念頭にあれば、牡丹の花を凝視したはずです。そして、その視線の奥には、雄蕊と雌蕊、花の生殖器官があります。その時、その視線は作者に跳ね返ってきて、老いた仏顔には、はるか昔日の修羅が内包されていることに気づかされま す。花王のような女盛りの昔日は、束の間、仏顔を崩すかもしれません。なお句集では、「牡丹くづる女が帯を解くごとく」と続きます。こちらの牡丹は紅色でしょう。『紫木蓮』(1998)所収。(小笠原高志)




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