January 0512015

 獅子舞の目こそ哀しき平和かな

                           辻井 喬

句では「平和」というような抽象的直裁的な表現を嫌うようだが、それは使い方によるもので、この句では「平和」がよく効いている。獅子頭の目はただ黒々と丸く描かれたものだから、何の感情も宿してはいない。人形などのそれのように、だからこそ逆に見るものの見方によってさまざまな感情を表すことになる。句意は獅子の目を見ているとその大きく見開かれた瞳が、現今の「哀しき平和」の様態を映し出しているように見えるというわけだが、同じ「平和」と言ってもその様態はさまざまだ。「平和」とは単に戦争の無い様態を言うこともできるけれど、内容的には大きな深浅の違いがあるだろう。簡単に言っておけば、戦後日本の「平和」は、戦後十五年ほどが最も深かった。もう戦争は御免だという意識が国民的な広がりを持っていて、再軍備などはとんでもないという理屈以前の根拠が大きな力を持っていた。国は貧しかったが、こんな時代はおそらく史上はじめてだつたと思う。「平和を守れ」とは単なるお題目ではなかった、それが今はどうだろう。戦争を知る世代の作者は、大きな哀しみをもって、お題目と化しつつある浅き「平和」の様態を眺めているという図だ。何をかいわんや。空爆くらいしか戦争を知らない私にしてからが、いまの「平和」の浅さには呆然としてしまう。「毎日新聞」(2014年5月24日・夕刊)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます