December 11122014

 飲食のあと戦争を見る海を見る

                           吉村毬子

食時に食事時にテレビをつければイスラム国での戦闘の画面が映し出され、次のニュースでは南半球のリゾート地でのバカンスに切り替わる、一つの部屋にいながらにしてテレビは次々と世界で同時的に起こる映像を映し出す。漫然と通り過ぎる画像を食事をしながらリビングで見る生活が歯止めなく流れてゆく。掲載句ではそうした現実を踏まえつつ、現実から少し浮遊したところで書きとめている印象だ。句に意味づけをするつもりははないのだけど、無季であるだけに「いんしょく」と読むか「おんじき」と読むかで句の色合いが変わってくるように思う。「おんじき」と読むと「飲食のあと」の言葉の響きに終末感が漂う。戦争と海の概念性が増し「見る」主体に「わたくし」ではない超越的な神の目を思わずにはいられない。日常的な飲食のくり返しの果てに戦争を見て、海に全てのものが飲み込まれてゆくのを見る、そんな怖さを感じさせられる。『手毬唄』(2014)所収。(三宅やよい)




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