December 03122014

 とぎ水の師走の垣根行きにけり

                           木山捷平

や、師走である。「とぎ水」はもちろん米をといだあと、白く濁った水のことである。米をとぐのは何も師走にかぎったことではなく、年中のこと。しかし、あわただしい師走には、垣根沿いの溝(どぶ)を流れて行く白いとぎ水さえも、いつもとちがって感じられるのであろう。惜しみなく捨てられるとぎ水にさえ、あわただしくあっけない早さで流れて行く様子が感じられる。「ながれ行く」ではなく「行きにけり」という表現がおもしろい。戦後早く、牛乳が思うように手に入らなかった時代、米のとぎ汁に甘みを加えて、乳幼児にミルク代わりに飲ませている家が近所にあったことを、今思い出した。栄養不足で、母乳が十分ではなかったのだ。とぎ汁には見かけだけでなく、栄養もあったわけだ。寒さとあわただしさのなかで、溝(どぶ)を細々とどこまでも流れて行く、それに見とれているわずかな時間、それも師走である。とぎ水を流すその家も師走のあわただしさのなかにある。「師走」の傍題は「極月」「臘月」「春待月」「弟(おとこ)月」など、納得させられるものがいろいろある。野見山朱鳥の句に「極月の滝の寂光懸けにけり」、原石鼎に「臘月や檻の狐の細面」などの句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます