October 26102014

 薪在り灰在り鳥の渡るかな

                           永田耕衣

者自ら超時代性を掲げていたように、昔も今も変わらない、人の暮らしと渡り鳥です。ただし、都市生活者には薪も灰も無い方が多いでしょう。それでもガスを付けたり消したり、電熱器もonとoffをくり返します。不易流行の人と自然の営みを、さらりと明瞭に伝えています。永田耕衣は哲学的だ、禅的だと言われます。本人も、俳句が人生的、哲学的であることを理想としていました。私は、それを踏まえて耕衣の句には、明るくて飽きない実感があります。それは、歯切れのよさが明るい調べを 与えてくれ、意外で時に意味不明な言葉遣いが面白く、飽きさせないからです。たぶん、意味性に関して突き抜けている面があり、それが禅的な印象と重なるのかもしれません。ただし、耕衣の句のいくつかに共通する特質として、収支決算がプラスマイナス0、という点があります。掲句の薪は灰となり、鳥は来てまた還る。たとえば、「秋雨や我に施す我の在る」「恥かしや行きて還つて秋の暮」「強秋(こわあき)や我に残んの一死在り」「我熟す寂しさ熟す西日燦」「鰊そばうまい分だけ我は死す」。遊びの目的は、遊びそのものであると言ったのは『ホモ・ルーデンス』のホイジンガですが、それに倣って、俳句の目的は俳句そのものであって、つまり、俳句を作り、俳句を読むことだけであって、そこに 意味を見いだすことではないことを、いつも意味を追いかけてしまいがちな私は、耕衣から、きつく叱られるのであります。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)




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