October 20102014

 よく見える幼子に見せ稲の花

                           矢島渚男

さな稲の花を見ている。いや、見ようとしている。が、おそらく少し老眼気味になってきた目には、細部までははっきりと見えないのだろう。そこでかたわらにいた幼い子にそれと教えて、「これが稲の花だよ。よく見ておきなさい」と指さしている図だと思う。むろん幼い子が稲の花に関心を抱くことはなかろうが、作者はとにかく「よく見える目」の持ち主に、見せておきたかったのである。つまり作者は幼子の目に映じているはずのくっきりした花の姿を想像して、その想像から自分にもくっきりと見えている気分にひたりたかったということだ。ちょつとややこしいけれど、この種の視覚的な行為に限らず、五感すべてにおいて、老いてきた身にはこのような衝動が走りがちになる。老いた人と幼い人との交流において、私たちはしばしば幼い人の行為を微笑をもって見守る老人の姿を見かける。あれはまたしばしば、掲句のような状態を受け入れようとしているが故の微笑なのだ。老いを自覚してきた私には、そのことの幸せと辛さとが分かりはじめている。『延年』(2003)所収。(清水哲男)




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