August 18 2014
水を出しものしづまりぬ赤のまま
矢島渚男
ゲリラ豪雨というそうだが、この夏も各地が激しい雨に見舞われた。山口県の私の故郷にも大量の雨が降り、思いがけぬ故郷の光景をテレビで眺めることになったのだった。ただテレビの弱点は、すさまじい洪水の間の様子を映し出しはするものの、おさまってしまえば何も報じてくれないところだ。句にそくしていえば「しずまりぬ」様子をこそ見たいのに、そういうところはニュース価値がないので、切り捨てられてしまう。「水を出し」の主体は、私たちの生きている自然環境そのものだろう。平素はたいした変化も起こさないが、あるときは災害につながる洪水をもたらし、またあるときは生命を危機に追い込むほどの気温の乱高下を引き起こしたりする。だがそれも一時的な現象であって、ひとたび起きた天変地異もしずまってしまえば、また何事もなかったような環境に落ち着く。その何事もなかった様子の象徴が、句では「赤のまま」として提出されている。どこにでも生えている平凡な植物だけれど、その平凡さが実にありがたい存在として、風に吹かれているのである。それにつけても、故郷の水害跡はどうなっているだろうか。農作物への被害は甚大だったろうが、せめていつもの秋のように、風景だけでも平凡なそれに戻っていてほしい。あの道々やあの低い丘の辺に、いつものようにいつもの「赤のまま」が、いつもの風に吹かれていてほしいと、切に願う。『延年』(2003)所収。(清水哲男)
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