August 0482014

 蝉時雨何も持たない人へ降る

                           吉村毬子

ま蝉時雨に降りこめられた格好で、これを書いている。午後一時半。気温は33度。先ほどまで35度を越えていた。何度か読んで、この句は二通りに解釈できると思った。一つは全体をスケッチのように捉えて、文字通りに何も持たない手ぶらの人が、激しい蝉時雨のなかで、暑さにあえいでいる図。しかしこの人は、あえいではいるけれど、へこたれてはいない。暑さをいずれはしのいでやろうという心根がかいま見える。もう一つの解釈は、何も持たないことを比喩的に捉えて、たとえば資産的にもゼロの状態にあり、血縁などももはや無し。世間とはほとんど無縁というか孤立状態に追い込まれていて、少し普遍化してみれば、この状態は多くの老人のそれといってよいだろう。そんな老人に、もはや蝉時雨に抗する元気はない。真夏の真昼どき、蝉時雨に追い立てられるようにして歩いていく。それを見ている作者のまなざしには、憐憫ではなくてむしろ愛惜に近い情がこもっている。誰にとっても、明日は我が身なのである。『手毬唄』(2014)所収。(清水哲男)




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