September 11 2012
河童の仕業とは秋水のふと濁り
福井隆子
前詞に「遠野」とある。ざんばら髪で赤い顔といわれる遠野の河童は、飢饉のむかし、川に捨てられた幼い子どもたちが成仏できずに悪さをしているという伝承もある。土地の語り部の話を聞くともなしに聞く視線の先に、川の水がふと濁っているのを見つける。信じるも信じないもない話だが、信じてあげたいような気持ちにもなる。哀れな運命をたどった子どもは確かに存在したのだろう。そして、それをしなければならなかった親たちも。時を越えて同じ水辺に立ち、同じ木漏れ日のなかで、強引に伝わってくるものがある。それは悲しみとも、恨みとも言いようのない、ただひたすら「ふと」感じるなにかである。河童といわれるものの正体は背格好といい、相撲を取るような習性といい、もっとも有力だといわれてきたカワウソも、先日絶滅が報じられた。心の重荷をときに軽くし、あるいは決して忘れることのないよう河童伝説にひと役かっていた芸達者が消えてしまったとは、なんともさびしいことである。〈秋天に開き秋天色の玻璃〉〈秋口のものを煮てゐる火色かな〉『手毬唄』(2012)所収。(土肥あき子)
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