December 16 2011
数へ日やレジ打つときの唇うごく
小原啄葉
同じ作者に「数へ日や茶筒のうへに燐寸箱」がある。そこに見えたものを見えたように。そこに在るものを在るように。これが「写生」という方法の核心であると僕などは理解している。しかしそこに別の要件を付加する考え方がある。いわく季題の本意や俳句的情趣。レジ打つときの唇うごくを詩ならしめているのは数へ日のはたらきがあるからだという人もいるだろう。年末の慌しいスーパーマーケットの様子が背景にあるから唇がうごくのだと。そうかなあ。それこそが師走のマーケットらしさを出すわざとらしい演出というふうにこの句を解釈することにならないか。一句の内容に関してその季題が唯一絶対か否かという見方で判断するとそういう解釈になる。唇がうごくのはレジを打つ個人の集中力や個人的な癖と大きくかかわっていると思えばこの数へ日は「絶対」ではなくなる。季語が絶対ではないと判断することがこの句の価値を貶めることになるのか。僕はそうは思わない。数へ日でも悪くはないが他の季節感でもいいかもしれないと思うのは、下句の瞬間の把握が人間の普遍的な在りように触れているからだ。後者の句も同じ。『小原啄葉季題別全句集』(2011)所収。(今井 聖)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|