August 19 2011
見回して雲のありたる秋の晴
深見けん二
ときどき句会で、研究会と称して「この句が無記名のまま句会に出たら、あなたは採りますか」という試みをやっている。いわゆる名句として喧伝されている句が対象だ。一度先入観を持ってしまうとなかなか作者名と作品を切り離して評価するのは大変だが、それをやってみようというわけである。自分の先入観を一度リセットしてほんとうにあなたにとってその句は魅力的な句なのか、その理由は?ということを問うていくと、鑑賞も評価も評論家やいわゆる大家などの権威に引きずられていることがわかる。この句、出席した句会に出たら僕は間違いなく採る。その理由は第一に、秋晴というのは一点の雲もなく、という本意に抗って雲のある秋晴が写生されている点。見た事実が本意を超えているのだ。第二に「見回して」に「自分」が出ている点。見回す間合いは気持の余裕と肉体の老いの所産だ。それは作者名がわかっているからそういう鑑賞が出来るのだという人がいるかもしれない。それは間違い。蓋を開けてみたらこの句が健康な青年だったという可能性はありえない。「健康な」という但し書きをつけたのは、若年であってもそういう気持の余裕と肉体の衰えを実感せざるを得ない境遇に置かれた場合は別であるという意味。「見回す」は自分と直接的に結びついた言葉である。『蝶に会ふ』(2009)所収。(今井 聖)
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