February 02 2011
憶い出にもたれて錆びる冬の斧
高岡 修
いかなる「憶い出」なのだろうか。それは知る由もないけれど、句全体の表情から推察するに明るく楽しいという内容ではあるまい。その「憶い出」に、まがまがしくもひんやりとした重たい斧がドタリともたれたまま、使われることなく錆びつつある。それは作者の心のありようか、あるときの姿かもしれない。さらに、この「憶い出」は斧自身の憶い出でもあろう。錆びる斧も錆びるナイフも本来の用をなさない。「錆びた」ではなく、「錆びる」という進行形に留意したい。ここでは思うように時は刻まれていない。いや、意に反して「錆びる」という逆行した時のみが刻まれているのである。詩人でもある修は、句集のあとがきで「詩・短歌・俳句・小説という文学ジャンルにおいて俳句はもっとも新しい文学形式である」と断言している。そうかもしれない。いちばん古い(旧弊な)文学形式は小説ではあるまいか、と私は考えている。掲句とならんで「愛のあと野に立ちくらむ冬の虹」がある。斧と言えば、誰しも佐藤鬼房の「切株があり愚直の斧があり」を想起するだろう。修は加藤郁乎の「雨季来りなむ斧一振りの再会」を新興俳句以降の代表句五句の一つとしてあげている。掲句を含む最新句集『蝸牛領』と既刊三句集をあわせ、『高岡修句集』(2010)としてまとめられた。(八木忠栄)
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