December 03 2010
風の彼方直視十里の寒暮あり
飯田龍太
僕は飯田龍太を花鳥諷詠の俳人だと思ったことがない。守旧派とか伝統派という範疇で考えたこともない。なぜだろうと思う。龍太は蛇笏の子で弟子で、蛇笏は虚子の高弟であったわけだから「ホトトギス」の主唱したところに直結していることに疑いはない。それなのにと思う。その理由を考えてみたらひとつの結論らしきものが浮んだ。龍太作品から僕は強く「個」を感じるせいだ。例えば龍太は自然を詠み風土を詠んだがそれは俳句が花鳥風月を詠むものだという理念に沿って詠んだわけではないように見える。龍太が仮に都会暮しをしていたら都市を詠んだだろうと僕は思う。仮の話は乱暴かもしれないが。龍太は山川草木を詠んだのではなく「日常」を詠んだのだ。それから文体が柔軟な点。龍太作品にはさまざまのオリジナルな文体が見られる。この句も上句は字余り。花鳥諷詠的情緒への信奉ではなく鯛焼きの鋳型のような音律重視のパターンでもなくて、まず「私」を凝視するという態度。それは「俳句は無名がいい」という龍太の発言とは矛盾しない。無名であらんとする「意思」こそが龍太の「私」を強調するからだ。『春の道』(1971)所収。(今井 聖)
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