昔の新宿仲間の井の頭公園花見会を四月三日に設定した。遅いかなあ。(哲




20100315句(前日までの二句を含む)

March 1532010

 春の夢気の違はぬがうらめしい

                           小西来山

山は、元禄期大阪の代表的俳人。芭蕉より十歳年下だが、交流の記録はないそうだ。上島鬼貫とは親しかった。来山というと、たいてい掲句が引用されるほど有名だが、一見川柳と見紛うばかりの口語調にもあらわれているように、俗を恐れぬ人であった。前書きに「淨しゅん童子、早春世をさりしに」とあり、五十九歳にして得た後妻との子に死なれたときの感慨である。この句を川柳と分かつポイントは、「春の夢」を季語としたところだ。「春の夢」はそれこそ俗に、人生一場の夢などと人の世のはかなさに通じる比喩として伝えられてきている。その意味概念は川柳でも俳句でも同じことだ。だが、川柳とは違い、季語「春の夢」はその夢の中身にはさして注目はしないのである。どんなに華やかな内容だったか、どんな艶なるシーンだったのかなどという詮索は無用とする気味が強い。この季語で大切なのは、目覚めたあとの現実との落差のありようなのであって、その落差をどう詠むかがいわば腕の見せ所となる。子を亡くした父親が、いかにプロの俳人だからとはいえ、文語調で澄ましかえって詠んだのでは、おのれの真実は伝わらない。口語調だからこそ、手放しで哭きたいほどの悲しみが伝えられる。つまり、彼は季語としての「春の夢」の機能を十全に活用し、「落差」に焦点をあてているわけだ。間もなくして来山も没したが、辞世は「来山は生まれた咎で死ぬる也それでうらみも何もかもなし」であったという。荘司賢太郎「京扇堂」所載。(清水哲男)




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