February 282010
白菜の孤独 太陽を見送つている
吉岡禅寺洞
白菜は冬の季語ですが、「白菜の孤独」といわれれば、どんな季節にも所属させる必要はないのかなと思います。これを句と見るか、あるいは一行詩と見るかについては、人それぞれに考え方は異なるでしょう。でも、ジャンルがあって後の作品、などというものは本来あるはずもなく、どちらだろうが読むものの感性に触れてくるものがあれば、それでかまわないわけです。真ん中にある空白は、現代詩であるならば助詞が入ったのかもしれません。あるいは句であるならば、取り払われるべきものなのでしょう。ゆるんだ助詞を入れることを拒み、しかしここにはしっかりとしたアキが必要なのだという、強い意志が感じられます。「見送っている」という、遠いまなざしのためにも、この距離は必要だったのかもしれません。太陽を見送るほどの孤独には、どこか狂気に近いものを感じます。それはおそらく、この句の雰囲気が、吉増剛造の詩の一節、「彫刻刀が、朝狂って、立ち上がる」を思い出させるからかもしれません。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|