November 062009
雪の降る町といふ唄ありし忘れたり
安住 敦
表現というものが事実をそのまま写すことは有り得ないことで、俳句もまたノンフィクションであることは自明の理だという一見正しい論法で入ると「写生」蔑視に通じる。水原秋桜子以降の流れはそういう「自明の理」を持ち出す方向だった。「新興俳句」の流れはノンフィクション説を奉じて今日に至っている。ほんとうにそうだろうか。ものを写す、現実、事実をまるごと写せるはずもないのに写そうとすること。それが俳句という詩形を最大限に生かす方法であると子規は直感したのではなかったか。もうひとつ、表現の持つエネルギーに対していわば負のエネルギーが俳句にある。これも詩形から来る俳句の固有のものだ。それは枯淡とか俳諧の笑いとか神社仏閣詠ではなくて、こういう句だ。「忘れたり」の真剣さは大上段の青春性に対抗して、正調「老人文学」の要だろう。技術の確かな、感覚の鋭敏な、博学の若手がどんなに頑張っても及ばない世界だ。作者最晩年の作品。『現代俳句』(1993)所収。(今井 聖)
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