「フケイキっていうのに、人が多いわネエ」。街中で老女が話しかけてきた。(哲




20090417句(前日までの二句を含む)

April 1742009

 顔振つて童女駆けゆく桜ごち

                           岡本 眸

ちは東風のこと。ひとの句を見て才能を感じるところは、自分だったらこう書けるだろうかというのが基準。この句の「見せ場」は「顔振つて」だ。それは誰しも認めるところだろう。この表現が発見されるか否かが秀句と駄句の分水嶺だ。そして、これを発見した喜びのあまり、凡俗はここで安心して「少女」か「少年」を持ってくるだろう。「少年」は字余りだからやはり「少女」かもしれない。一般的情緒が読者を納得させるだろうし、既に「見せ場」は抑えてある。「少女」をもってくる動機は十分だ。しかし、本当の才能はここからだ。「童女」は正真正銘の才能を感じさせる。少女という言葉が女性の年齢的な範囲を曖昧にしか示せないことと、駆けゆく少女がいかに手垢にまみれたロマンへの入口になるかを熟知している作者は「少女」を忌避し、「童女」を用いたのだ。勝負が決まったと思われた時点でもうひとつ上の段階が待っている。季題「桜ごち」は童女が駆けてゆく風景の構成での一般性を意識している。「写生派」を選択した俳人は「一般性」を完全に捨て去ることは難しい。講談社版『新日本大歳時記』(2000)所収。(今井 聖)




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