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January 0212009

 手を入れて水の厚しよ冬泉

                           小川軽舟

体に対してふつうは「厚し」とは言わない。「深し」なら言うけれど。水を固体のように見立てているところにこの句の感興はかかっている。思うにこれは近年の若手伝統派の俳人たちのひとつの流行である。長谷川櫂さんの「春の水とは濡れてゐるみづのこと」、田中裕明さんの「ひやひやと瀬にありし手をもちあるく」、大木あまりさんの「花びらをながして水のとどまれる」。水が濡れていたり、自分が自分の手を持ち歩いたり、水を主語とする擬人法を用いて上だけ流して下にとどまるという見立て。「寒雷」系でも平井照敏さんが、三十年ほど前からさかんに主客の錯綜や転倒を効果として使った。「山一つ夏鶯の声を出す」「薺咲く道は土橋を渡りけり」「秋山の退りつづけてゐたりけり」「野の川が翡翠を追ひとぶことも」等々。山が老鶯の声で鳴き、道が土橋を渡り、山が退きつづけ、川が翡翠を追う。その意図するところは、「もの」の持つ意味を、転倒させた関係を通して新しく再認識すること。五感を通しての直接把握を表現するための機智的試みとでも言おうか。『近所』(2001)所収。(今井 聖)


February 1022014

 薺咲き堰かれゐし時どつと過ぐ

                           矢島渚男

の訪れは、花や鳥が告げてくれる。ちなみに「春告鳥」といえば「ウグイス」のことであり、「春告草」は「ウメ」のことだ。しかし春を告げるといっても、ウグイスやウメは動植物のなかで先頭をきって告げてくれるわけじゃない。どちらかといえば、ゆったりと春の到来を確認したり念押ししたりするように感じられる。人間の春待つ心は、多く悠長ではない。とりわけて北国の人たちは、長く停滞する冬のプレッシャーのなかにあって、少しでも早く春の兆しをつかもうと待ちかまえているので、ウグイスやウメよりも、他の鳥や花の動静に敏感だ。そんななかで、薺の花はウメよりもかなり早い時期に咲きはじめるので、多くの人たちはむしろこちらの開花を待ち望んでいる。そして、早春のある日。庭や路傍に点々と咲きはじめる白くて小さい花々。目を凝らせば、あちらにもこちらにも白い花が咲いているではないか。と、認識した瞬間に、いままで澱んでいたような冬の時間のかたまりが、まるで堰を切ったように流れ出して、目の前を「どつと」過ぎていき、胸のつかえがとれたように晴れやかな気分になってゆく。地味な花の開花によって、「どつと」流れ出す大量の冬の時間。この句構成は、春待つ心の切実さを的確にとらえていて見事だ。『采微』所収。(清水哲男)




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