出勤時に走っているのは、たいていが若い女性だ。何故なんだろうか。(哲




20081222句(前日までの二句を含む)

December 22122008

 もののけの銀行かこむ師走かな

                           井川博年

走の銀行で思い出した。三十代のはじめころ、年末年始を無一文状態で過ごしたことがある。暮の三十日だったかに、家人が買い物の途中で貰いたてのボーナスを袋ごと擦られてしまったからだった。たしか五万円ほどだったと思うが、我々には大金である。それだけあれば年は楽に越せると踏んでいたので、お互い真っ青になった。銀行にいささかの預金はあったのだけれど、昔の銀行は年末年始は休業で引き出せない。大晦日には、私の原稿料が小切手で送られてはきたものの、これまた現金化は不可能だ。要するに「金はあるけど金は無し」状態となったわけで、大いにうろたえた私は、もしかすると銀行が開いているかもしれぬと出かけてみたものの、むろん徒労に終わったのである。このときの銀行の前の私は、おそらく小さな「もののけ」のようであったに違いない。この句のそれらは私のようなちっぽけな存在ではなくて、貸し渋りなどで倒産した企業主や従業員の恨みや呪いをまとった「物の怪」たちである。夜となく昼となく、それらが銀行をかこんでいるのだ。この大不況の中だから、この句は異様に切実な実感を伴って迫ってくる。読み捨てにできる読者は、よほど恵まれた人なのだろう。こういう句が二度と詠まれることのない世の中の到来を願いつつ、あえて愉快ではない句をご披露した次第だ。『余白句会』(第80回・2008年12月20日)出句作品より。(清水哲男)




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