何語で考えるのか、それが私の問題です。若き日の加藤周一さんに伺った話。(哲




20081207句(前日までの二句を含む)

December 07122008

 入れものがない両手で受ける

                           尾崎放哉

由律俳句といっても、その表れ方は作品によってさまざまです。ですから読み手も作品ごとに、受け止め方を変えなければなりません。今日の句に限っていうなら、この短い作品には、もともと具体的なものや人、あるいは季語があったのに、なんらかの理由で取り払われてしまったのではないかと、感じさせるものがあります。読者としては、とうぜん失われたものがなにかということに思いを馳せることになります。作者はいったい何を受け取ろうとしていたのか。あるいはどんな姿勢をとっていたのか。手の形はどうしていたのか。しばらく考えをめぐらせたあとで、そんな詮索が意味のないことであると知るのです。結局、作者が詠みたかったのは、失われた「入れもの」自体であったと気づくのです。何ものも媒介するものがなく、この世をじかに受け止めていることの心細さ、といってしまっては解釈が単純すぎるでしょうか。五七五という熱い「入れもの」を手放した作者の思いを、両手でじかに受け止めさせられているのは、ほかならぬ読者なのかもしれません。『底のぬけた柄杓』(1964・新潮社)所載。(松下育男)




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