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September 0292008

 本流の濁りて早き吾亦紅

                           山田富士夫

集には掲句に続き〈濁流の退きて堰堤吾亦紅〉が並んでいる。人の嗜好を山派、海派と分けると聞くにつけ、川派も入れてくれ、とつねづね思っていた。山の深みに迷う感じも怖いし、海の引く波にも底知れぬ心細さを感じる。川のただひたすら海を目指して行く健やかさが好ましい、などと言うと、このところの不順というより凶悪な豪雨に暴れ狂う映像が繰り返されるように、川もまた穏やかな顔だけ見せるわけではない。以前、静岡の実家の前に流れる川が氾濫し、向こう岸が決壊したことがある。近所中の大人が揃って土手に並び、形のなくなった対岸を眺めていた。雨ガッパ姿の大人が並ぶ後ろ姿も異形だったが、足元にすすきが普段通りに揺れていたのが一層おそろしかった。掲句も激しい濁流に取り合わせる吾亦紅の赤は、けなげというより、やはり取り残された日常のおそろしさをあらわしているように思う。『砂丘まで一粁』(2008)所収。(土肥あき子)


September 1092009

 吾亦紅百年だって待つのにな

                           室田洋子

石の『夢十夜』に「百年、私の墓の傍に座つて待つていて下さい。屹度逢ひに来ますから」と死に際の女が男に言い残すくだりがある。墓のそばで時間の経過もわからなくなるぐらい待ち続けた男のそばで真白な百合がぽっかり咲いたとき「百年はもう来てゐたんだな」と男は気づく。掲句はその場面をふまえて作られているように思う。漱石の夢では女は花になって帰ってきたが、吾亦紅になって愛しい人を待ちたいのは作者自身だろう。待っても、待っても二度と会えないことを知りながら、ああ、それでもあの人に会えるなら百年だって待つのにな、と逆説的に表現している。吾亦紅の花に派手さはないが、赤紫の小さな頭を風に揺らす様子がかわいらしい。子供っぽい口語口調で表現されているが、待っても来ない哀しさをこんな表現に転換できるのはあきらめを知ったおとなの感情だろう。秋の暮れまで野に咲き続ける吾亦紅が少しさびしい。『まひるの食卓』(2009)所収。(三宅やよい)




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