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20080505句(前日までの二句を含む)

May 0552008

 火のようにさみしい夏がやってくる

                           近三津子

は来ぬ。実感的にはまだかな。それはともかくとして、まだ猛暑に至らないいまどきに「夏」と聞くと、気分が良くなる。少なくとも、私の場合は、だ。一般的に言っても、おそらくそうではないかと思うのだが、揚句の作者はそのようには思わないと言うのである。逆である。しかし、句にその根拠は示されていない。だからして独善的で一方的な物言いかと言うと、あまりそうは感じられないところが、俳句ないしは詩歌の妙と言うべきか。そう言われてみれば、何かわかるような気もしてくるのである。この句の生命線は、もとより「火のようにさみしい」という比喩にある。さみしさも高じると、火のようにめらめらと燃え上がり、手がつけられなくなるほどに圧倒されてしまう。その手のつけられなさが「夏」という言葉と実際とににかかるとき、そこには常識から言えば一種パラドックスめいた納得の時空間が成立するのだ。「夏」と「火」とは合う。でも「火」と「さみしさ」とは、なかなかに合い難い。作者はそこを強引に「私には合う」と言ってのけていて、それをポエムとして仕立て上げているわけだ。自由詩の世界ではままあることだけれど、俳句ではあまり見かけない表現法である。したがって揚句は、読者の感受性を調べるリトマス試験紙のようなものかもしれないと思った。この断言肯定命題にうなずくのか、それとも断固忌避するのか。そのことは、読者のいわば持って生まれた気質にかかわってくると思われるからである。もちろん、どちらでも良いのである。ともかく、また今年もやがて「火の」夏がやってくる。愉しくあって欲しい。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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