November 03 2007
落魄やおしろいの実の濡れに濡れ
藤田直子
濡れるは光るに通じている。先日の時ならぬ台風の日、明治神宮を歩いた。玉砂利に、団栗に、ざわつく木々とその葉の一枚一枚に降る雨。太陽がもたらす光とは違う、冷たく暗い水の光がそこにあった。何年か前の雨月の夜、同じように感じたことを思い出す。観月句会は中止となったが、せっかく久しぶりに会ったのだからと、友人と夜の公園に。青い街灯に、桜の幹が黒々と、月光を恋うように光っていた。この句は、前書に「杜國隠棲の地 三句」とあるうちの一句。坪井杜國(つぼいとこく)は、蕉門の一人で、尾張の裕福な米穀商だったが、商売上の罪で流刑、晩年は渥美半島の南端で隠棲生活を送った。享年三十四歳。おしろいの花の時期は、晩夏から晩秋と長いが、俳句では秋季。落魄(らくはく)の、魄(たましい)の一字にある感慨と、おしろいの実の黒く濡れた光が呼応して、秋霖の中に佇む作者が見える一句である。芭蕉は、この十三歳年の離れた弟子に、ことのほか目をかけ、隠棲した後に彼の地を訪ね、別れ際に、〈白芥子に羽もぐ蝶の形見かな〉の句をおくったという。あえかなる白芥子の花弁と、蝶の羽根の白に、硬く黒いおしろいの実の中の、淡い白さが重なる。「秋麗」(2006)所収。(今井肖子)
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