September 19 2007
二人行けど秋の山彦淋しけれ
佐藤紅緑
紅葉狩だろうか。妻と行くのか、恋人と行くのか。まあ、恋多き紅緑自身のことだとすれば後者かも。それはともかく、高々と澄みわたった秋空、陽射しも空気も心地よい。つい「ヤッホー!」と声をあげるか、歌をうたうか、いずれにせよ山彦がかえってくる。(しばらく山彦なんて聴いていないなあ)山彦はどこかしら淋しいひびきをもっているものだが、秋だからなおのこと淋しく感じられるのだろう。淋しいのは山彦だけでなく、山を行く二人のあいだにも淋しい谺が、それとなく生じているのかもしれない。行くほどに淋しさはつのる。春の「山笑ふ」に対して、秋は「山粧ふ」という。たとえみごとな紅葉であっても、「粧ふ」という景色には、華やぎのなかにもやがて衰える虚しさの気配も感じられてしまう。秋の山を行く二人は身も心もルンルン弾んでいるのかもしれないが、ルンルンのかげにある山彦にも心にも、淋しさがつきまとっている。ここは「行けば」ではなくて「行けど」が正解。紅緑が同時に作った句に「秋の山女に逢うて淋しけれ」もある。両方をならべると、「いい気なものだ」という意見も出るかもしれない。されど、紅緑先生なかなかである。紅緑は日本派の俳人として子規に師事したが、俳句の評価はあまり芳しくなく、やがて脚本・小説の世界へ移り、「あゝ玉杯に花うけて」で一世を風靡した。句集に『俳諧紅緑子』『花紅柳緑』があり、死の翌年(1950)に『紅緑句集』が刊行された。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
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