August 15 2007
敗戦の日の夏の皿いまも清し
三橋敏雄
今日八月十五日は「敗戦の日」。あれは「終戦(戦いの終わり)」などではなかった。昭和二十年のこの日がどういう日であるか、知らない若者が今や少なくない。若者どころか、十年近く前に、この日を知らない七十歳に近い女性に会って仰天したことがある。「八月六日」や「八月九日」を知らないニッポン人は、さらに全国で増えている。敗戦の日の暑さや空の青さについては、あちこちで語られたり書かれたりしてきたが、ここで敏雄の前には一枚の皿が置かれている。おそらくからっぽの白っぽい皿にちがいない。それは自分の心のからっぽでもあったと思われる。皿はせつないほどに空白のまま、しかも割れることなく消えることなく、いつまでも自分のなかに存在しつづけている。皿は時を刻まず、新たにごちそうを盛ることもない。悲しいまでに濁りなく清々しい。「清し」には「潔(いさぎよ)い」という意味もある。万事に潔くないことが堂々とまかり通っている昨今を思う。「清し」という言葉には、八月十五日の敏雄の万感がこめられていただろう。敏雄は句集『まぼろしの鱶』(1966)の後記にこう書いている、「敗戦を境に、世の新たな混乱はまた煩憂を深くさせた」と。「いまも清し」という結句をその言葉に重ねてみたい思いに駆られる。この国/私たちは現在、この「皿」に見掛け倒しの濁った怪しげなものをあからさまに盛りつけようとしてはいないか? 冗談ではなくて、私には「皿」の文字が「血」にも見えたりする。掲出句とならんで、よく知られている句「手をあげて此世の友は来りけり」も収められている。『巡禮』(1979)所収。(八木忠栄)
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