いつの間にやら、近所の百日紅が花をつけている。梅雨空とは無関係らしい。(哲




20070726句(前日までの二句を含む)

July 2672007

 手花火の君は地球の女なり

                           高山れおな

花火をする様子は俳句では詠み尽された情景のように思えるが、この句は「地球」という言葉を加えたことで、思いがけない像を描き出している。私たちは地球に生きている動物の一員でしかないけれど、人間中心に生活しているとそんな事実はどこかに吹き飛んでしまう。あたりまえに思えることをわざわざ定義しなおすことで、目の前の光景は宇宙的規模に拡大される。ボクの前で膝をかがめ、ぱちぱち花火を散らしている彼女の姿が丸い地球の表面にへばりついて花火をしているマンガ的にデフォルメされた図として頭に浮かんでくる。それと同時にキミとボクの間柄もにわかに遠のいて親しい彼女が「地球の女」という見知らぬ生物になってしまったようなとまどいも感じられるのだ。経験に即した実感を持って目の前の対象を写しとることに力点を置いた近代俳句以前の俳諧は言葉の滑稽や諧謔を楽しんでいた。掲句では小さく視界がまとまりがちな手花火の景にレベルの違う言葉の「ずれ」を持ち込むことで、日常の次元をゆがませ、ナンセンスなおかしみを感じさせている。『ウルトラ』(1998)所収。(三宅やよい)




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