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July 0672007

 落蝉の眉間や昔見しごとく

                           山口誓子

ちて転がっている蝉を拾い、その眉間(みけん)に見入る。ああ、昔見たようだとふと思う。そういう句だ。「見し」ではなくて「見しごとく」なので、はっきり記憶にあるわけではない。見たような感じがするということ。この句を郷愁の句ととることも出来る。蝉捕りをした頃の「昔」の回想。それにしても、蝉の眼と眼の間の距離、色彩、形状。どこにも従来の郷愁的、俳句的情緒のかけらもない。芭蕉の「さまざまのこと思ひ出す桜かな」あたりが一般的抒情のお手本になったからみんな花鳥風月の桜や鶯や風や月の抒情を利用して回顧のシーンや心情に移行するわけだ。ここにはその「典型」がない。日常の瞬間の即物的風景を入口にして、そこから個人的体験へ入っていく。僕はこの句に既視感(デジャ・ブ)をみる。死んだ蝉の眉間にぐんぐん接近するにつれて、カメラは存在の不安ともいうべきものを映し出す。「昔見たような感じ」から「自分がここにこうして在る不思議」へと至るのだ。このカメラワークには世界のクロサワもかなわない。俳句形式でなければ描けない固有の衝撃力がここにはある。存在の不安は即物非情と称せられる誓子作品に一貫しているものであって、それは子規が発案したときに「写生」という方法がもともと持っていた最大の特徴というふうに僕は思うのだが。『遠星』(1947)所収。(今井 聖)




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