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June 0862007

 わが金魚死せり初めてわが手にとる

                           橋本美代子

魚が死んだ。長い間飼っていたので犬や猫と同様家族の一員として存在してきた。死んだ金魚を初めて掌に乗せた。触れることで癒されたり癒したりするペットと違って、一度も触れ合うことのない付き合いだったから、死んで初めて触れ合うことが出来たのだった。空気の中に生きる我等と、水中に生きる彼等の生きる場所の違いが切なく感じられる。この金魚は季題の本意を負わない。夏という季節は意味内容に関連してこない。この句のテーマは「初めてわが手にとる」。季題はあるけれど季節感はない。そこに狙いはないのである。もうひとつ、この素気ない読者を突き放すような下句は山口誓子の文体。「空蝉を妹が手にせり欲しと思ふ」「新入生靴むすぶ顔の充血する」の書き方を踏襲する。誓子は情感を押し付けない。切れ字で見せ場を強調しない。下句の字余りの終止形は自分の実感を自分で確認して充足している体である。作者のモノローグを読者は強く意識させられ自分の方を向かない述懐に惹き入れられる。橋本多佳子の「時計直り来たれり家を露とりまく」も同じ。誓子の文体が脈々と繋がっている。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


July 2472007

 もう少しの力空蝉砕けるは

                           寺井谷子

の一生は地中で7年、地上で2週間といわれている。なかには地中暮らしが13年、17年などという強者もいるが、それでもやはり地上の命は同じようにわずかなものだ。蝉という昆虫を感傷的に捉える理由は、この地上での命の短さにあるが、空蝉(抜け殻)が与える視覚的な衝撃も大きく影響しているように思える。無事蝉となった抜け殻を手に乗せそっと握るとき、ふと力を込めて壊してしまいたい衝動にかられる。それは深い渓谷に片足だけそっと差し出す行為にも似て、「しないけれどしてみたらどうだろう」と思うだけで心が騒ぐ。抜け殻なのだから、よもや粉々に壊してしまったとしても、それを残酷な行為とはいえないだろう。しかし、わずかな力の付加を思い留まらせているのが、蝉そのものの形、それも祈るような姿のまま凍り付いている物体への哀憐であろう。わずかな命と引き換えに羽を得た生き物は、その抜け殻さえも殉教者の衣のように神々しく思える。一方、それを引き裂いてしまいたいと思う危うい心に、さまざまなしがらみの中で生きていかねばならぬ人間の悲しいほどまっとうな感情を覚えるのだ。『母の家』(2006)所収。(土肥あき子)


July 2972008

 わが死後は空蝉守になりたしよ

                           大木あまり

いぶん前になるがパソコン操作の家庭教師をしていたことがある。ある女性詩人の依頼で、その一人暮らしの部屋に入ると、玄関に駄菓子屋さんで見かけるような大きなガラス壜が置かれ、キャラメル色の物体が七分目ほど詰まっていた。それが全部空蝉(うつせみ)だと気づいたとき、あまりの驚きに棒立ちになってしまったのだが、彼女は涼しい顔で「かわいいでしょ。見つけたらちょうだいね」と言ってのけた。「抜け殻はこの世に残るものだから好き」なのだとも。その後、亡くなられたことを人づてに聞いたが、あの空蝉はどうなったのだろう。身寄りの少なかったはずの彼女の持ち物のなかでも、ことにあれだけは私がもらってあげなければならなかったのではないか、と今も強く悔やまれる。掲句が所載されているのは気鋭の女性俳人四人の新しい同人誌である。7月号でも8月号でも春先やさらには冬の句などの掲載も無頓着に行われている雑誌も多いなか、春夏号とあって、きちんと春夏の季節の作品が掲載されていることも読者には嬉しきことのひとつ。石田郷子〈蜘蛛の囲のかかればすぐに風の吹く〉、藺草慶子〈水遊びやら泥遊びやらわからなく〉、山西雅子〈夕刊に悲しき話蚊遣香〉。「星の木」(2008年春・夏号)所載。(土肥あき子)


November 03112009

 手が翼ならば頭は秋の風

                           守屋明俊

日「文化の日」は、一年に数日ある晴れの特異日。予報では降水率10%だが、最高気温が東京で15度とかなり低い。11月に入ると、空にはしっとりした秋と硬質な冬のストライプがあって、冬の層がみるみる厚くなっていくように思える。くっきりと筋目のついているような秋の空気を、両手で撹拌しながら深呼吸してみれば、なんとなく宙に浮くような気分が味わえる。空を飛ぶ鳥たちには、翼を上下させるはばたき飛行のほか、翼を広げたまま宙を滑るように飛ぶ滑空など、さまざまな飛び方があるという。しかし、どれも頭は矢印の先のように進行方向を指している。秋の風に小さな頭をもぐりこませるようにして、それぞれの目的地を目指しているのだと頭上を仰げば、飛び交う鳥たちの残した軌跡のような雲が青空に描かれていた。ところで、掲句によって合点がいったことがある。それは、天使の絵には肩甲骨のあたりから大きな翼が生えており、合唱コンクール定番の「翼をください」の歌詞でも背中に鳥の翼が欲しいと歌われるが、掲句もいうように、翼は人間の腕にかわるものであるはずだ。想像上の姿とはいえ、腕も翼も持つというのは少し欲張りすぎやしないだろうか。人魚を描くとき、足のほかに尾を付けることがないのに、不思議なことである。〈母校とは空蝉の木が鳴くところ〉〈稲妻や笑ひの絶えぬ家ながら〉『日暮れ鳥』(2009)所収。(土肥あき子)


September 2892010

 こほろぎとゐて木の下に暮らすやう

                           飯田 晴

の声を聞きながら夜を過ごすのにもすっかり慣れてきたこの頃である。都内のわが家で聞くことができるのは、青松虫(アオマツムシ)がほとんどだが、夜が深まるにつれ蟋蟀(コオロギ)や鉦叩(カネタタキ)の繊細な声も響いてくる。掲句にイメージをゆだね、眼をつむってしばし大好きな欅にもたれてみることにした。一本の木を鳥や虫たちと分け合い、それぞれの声に耳を傾ける。昼は茂る葉の向こうに雲を追い、夜は星空を仰いで暮らしている。食事はいろんな木の実と、そこらへんを歩いている山羊の乳など頂戴しよう。ときどきは川で魚も釣ろう。などと広がる空想のあまりの心地の良さに、絶え間なく通過する首都高の車の音さえ途絶えた。束の間の楽園生活を終えたあとも、虫の声は力強く夜を鳴き通している。〈空蝉のふくらみ二つともまなこ〉〈小春日の一寸借りたき赤ん坊〉『たんぽぽ生活』(2010)所収。(土肥あき子)


June 0162012

 空蝉となるべく脚を定めけり

                           夏井いつき

間にある事物を自分の「知」のはたらきで感じ取り構成していく。俳句の骨法の大きな要素。地球上でこんなに人間が横暴に好き勝手しているのにその面倒にもならずそればかりか人間に「名指し」で妨害されても自分の力で必死に暮らしている鳥や虫たちがいる。雀や燕やカラスをみると胸が熱くなります。虫もそうだなあ。この空蝉も神の造型を感じさせる。『平成俳句選集』(2007)所収。(今井 聖)


August 0182013

 空蝉の薄目が怖い般若湯

                           須藤 徹

若湯とは僧侶が使う隠語で「酒」を表すという。この句は「飲む」という題詠句会で出された句だったと思う。俳句で兼題と言えば名詞か季語が多いのだか、この時は川柳人との合同句会で「題詠での動詞をどう扱うか」で両者の差異を探ろうと試みた。掲句では「飲む」を僧侶が飲む酒とその行為へ転嫁している。空蝉の「薄目」に見られることがお釈迦様の半眼に見られているような後ろめたさを感じさせる。「般若湯」の一語に隠れて「飲む」行為が隠されているわけで、それをどう読み解くかが鍵と言える。須藤さんの句は俳句への知識と自らの思想に裏打ちされた言葉が多く、おいそれと近づくのを許さない雰囲気があった。しかし、句会では私をはじめ多くの若手俳人が「般若湯」の意味を解せず、「銭湯の名前かと思った」という意見もあって大笑いになったが、そんな発言もおおらかに受け止めてくれる人だった。東京へ来て数知れぬ恩を受けたが、この数年言葉を交わす機会もなく逝ってしまわれたことに悔いが残る。『荒野抄』(2005)所収。(三宅やよい)


June 1062014

 サイダーや泡のあはひに泡生まれ

                           柳生正名

国清涼飲料工業会が提供する「清涼飲料水の歴史」によると、日本に炭酸飲料が伝えられたのは1853年、ペリー提督が艦に積んでいた炭酸レモネードを幕府の役人にふるまったことから始まる。その際、栓を抜いたときの音と吹き出す泡で新式銃と間違えた役人が思わず腰の刀に手をかけたという記述が残る。その後、喉ごしや清涼感が好まれたことで一般に広く普及した。掲句ではかつての役人が肝を冷やした気泡に注目する。それは表面に弾ける泡ではなく、コップのなかで生まれる泡の状態を見つめる。泡はヴィーナス誕生の美しさとともにうたかたであることのあわれをまとい、途切れなく、そして徐々に静まっていく。〈切腹に作法空蝉すぐ固く〉〈少年も脱いだ水着も裏返る〉『風媒』(2014)所収。(土肥あき子)


August 2582014

 蝉殻を踏めば怖ろしうすき聲

                           中島夜汽車

ろしい句だ。とくに私のように、子供のころの夏休みの退屈紛れに、遊び半分で無数の蝉を殺戮(!)した者にとっては。思い出すだにおぞましい思いにとらわれるので、殺戮の詳細については書かないでおく。句の「怖ろし」をくどいと思う人もいそうだが、私には適当と思える。「蝉殻」は亡骸ではない。だからこそ、それが発する、発するはずもない「うすき聲」には、この世のものではない「怖ろしさ」があるのだ。いずれはこの声にとり殺されるのではないかと、読んだ瞬間にはぞっとした。道を歩いていて、気づかずに蝉殻を踏む。よくあることである。たいていの人は気にもかけないのだろうが、そこに「うすき聲」を聞いてしまった作者は、私とはまた別の意味で、蝉に対する特別な思い入れがあるのだろうか。気になる、ことではあった。『銀幕』(2014)所収。(清水哲男)


December 28122014

 空蝉や触るも惜しき年埃

                           永田耕衣

蝉という日本語には、雅ではかない情感があります。十七歳の光源氏が心魅かれた女性の名が空蝉でした。光源氏の夜の訪れを察して、薄衣を残して去った幻の女性です。耕衣の書斎には、自筆の書画のほかに小物、小道具、珍品が小さな博物館のように有機的かつ無造作に置かれていたと聞きました。句集では、掲句の前に「空蝉の埃除(と)らんと七年経つ」があるので、「年埃(ねんぼこり)」は、七年物です。合理主義者ならそれを、七年間放置されているゴミとみなして捨てます。年末の大掃除のときなら尚更でしょう。しかし、耕衣は「触るも惜しき」心を表明しています。蝉の抜け殻は脱皮後の抜け殻ですが、蝉がこれから生きていくためには、まったく必要のない廃棄物です。ところが、耕衣はそれを七年間書斎に置き、はじめのうちは抜け殻そのものの造形美を見ていたのが、見つづけるうちに埃が堆積してきた変化を楽しみはじめます。空蝉に堆積しつづける年埃は、砂時計が一粒ずつ落ちることによって時の経過を示すように、時間を可視化しています。拾ってきたセミの抜け殻をコレクションにしたがるのは子どもに多く、耕衣は、幼児性が抜けていないおじいちゃんであったこともしのばれます。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)


August 2382015

 空蟬のかなたこなたも古来かな

                           永田耕衣

語辞典によると、「空蝉」は「ウツシオミ=現臣」が転じた言葉です。よって、第一義はこの世の人という意味です。また、「空蝉の」は「世」にかかる枕詞で、「万葉集482」に「空蝉の世の事なればよそに見し山をや今はよすかと思はむ」があります。奈良時代には、はかないという意味は必ずしも持っていなかったけれど、平安時代以後は、蟬の脱け殻の意と解したので、はかないという意味になったといいます。以上、大野晋氏の解説によりました。これをふまえて掲句を読むと、二通りの読み方ができ そうです。一つ目は、「空蝉の」を枕詞として読みます。すると、枕詞の意味は考えないで読むことが常套なので、中七下五だけの意味になります。二つ目は、「空蝉」を蟬の脱け殻として即物的に読みます。すると、蟬の脱け殻は、古来から遍在しているという意味になります。それが無常観だととることもできますが、いずれも句を読みとった手応えが残りません。ただし、有季定型に納まっていて、中七以下「カ行音」と「ナ」音の韻律が調べを出しているので、口になじみやすい句になっています。何度も口ずさんでいると軽やかな気持ちにもなります。作意がどこにあるのかは不明ですが、軽みは確かです。「空蝉」は、実体として軽く、「かなた」「こなた」「古来」は、実体のない抽象語として、空っ ぽの軽さがあるからでしょうか。そういう遊びなのかもしれないし、まったく的外れなのかもしれません。なお、句集では掲句の前に「空蝉を出して来るなり高めにぞ」があり、これも意味不明です。意味不明だけど面白い。「天才バカボン」みたいなものか。なお、ここまで書き終えて、句集「後記」を読みました。「私は思った。彫刻、絵画、文学でさえ、超秀作というものは、論理思考を優に超越して、真実<在って無き>魅力を窮極とするものだ。ソレはソノ魅力が<虚空的>であるが故である、というのが現在私の生涯的決断である。」『泥ん』(1992)所収。(小笠原高志)




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