June 042007
夏の月ムンクの叫びうしろより
阿部宗一郎
あまりにも有名なムンクの「叫び」。血の色のように濁った空の下で、ひとりの人物が恐怖におののいた顔で耳をふさいでいる。つまり題名の「叫び」はこの人物が発しているのではなく、赤い空に象徴された自然が発している得体のしれない声なのだ。掲句はしたがって、この人物の位置から詠まれている。季語「夏の月」は、多く涼味を誘われる景物と詠まれているが、この場合は花札にあるような不気味さを伴ってのぼってくる月と読める。その火照ったような光を見ていると、まさにムンクの「叫び」が「うしろより」聞こえてくると言うのである。作者は兵士としてかつての戦争を体験し、長くシベリアに抑留された人だ。だから「夏の月」を見ても、いまだに風流を覚えるというわけにはいかないのである。「夏の月耳に砲声消ゆるなし」の句もあり、掲句の「叫び」は砲声も含むが、それよりも戦場に斃れた数多くの戦友たちの無念の声でなければならない。戦後六十余年、もはや多くの人には仮想現実のようにしか思えないであろうあの悲惨を、現実のものとして捉え返せという切実な「叫び」がここにある。『君酔いまたも逝くなかれ』(2006)所収。(清水哲男)
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