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May 3152007

 一枚の早苗の空となりにけり

                           松本秀一

者は愛媛県宇和島市で農業を営みながら版画を製作し、俳句を詠む生活を送っている。植物を題材にした繊細な銅版画同様、四季折々の対象にそっと寄り添うやさしい心と自然な息遣いが句集から伝わってくる。都会で満員電車に揺られて働くものから見れば、季節の運行に合わせての労働の日々は羨ましい限りだが、作物の出来不出来に、不順な天候に、頭を悩ますことも多々あるに違いない。田植えの時期は地方によって違いがあるだろうが、中国、四国地方は早くも水不足が報じられている。今年の田植えは大丈夫だろうか。水を入れた田は足がずぶずぶ沈んで、慣れていないと進むのも下がるのも難儀するものだが作者は一心に手際よく苗を植えてゆくようだ。「早苗植う思考と歩行まつすぐに」雑念があってはいけないのだろう。早苗を植え終わったあとの田に空が、雲が鮮明に映る。「早苗の空」という言葉に一枚の早苗田が空に転化したような大きな広がりを感じさせる。縦横きれいに植え終わった初々しい早苗の緑が目にしみる。「なりにけり」とやや古風な言い回しに早苗田を静かな安堵とともに見つめている作者の心持ちが実感として伝わってくる。『早苗の空』(2006)所収。(三宅やよい)


May 2852009

 浮苗に記憶はじめの夕日射

                           宮入 聖

か三島由紀夫が産湯につかった盥のふちが金色に光るのを覚えていると『仮面の告白』に書いていたように思う。自分自身の「記憶はじめ」を遡ってみると、親から繰り返し聞かされた話や古ぼけたアルバムの映像が入り混じってどれを「記憶はじめ」にしていいやら自信がない。ただ、記憶をたどるその先に夢と区別のつかないぐらい曖昧ではあるが、対象をはっきりと見ている自分が確かに感じられる。自他の区別なく渾然一体としていた世界が自分と外の世界にある距離感を生じることが「記憶はじめ」なのかもしれない。田植えが終わったあと、しっかりと根が固定されずに頼りなく浮いている苗にふと目をとめた作者。ほかの苗が整然と直立しているからこそ浮き沈みする苗に視線が釘付けになり、頭の中の記憶が揺らされるように思ったのだろう。田水を金色に光らす夕日射が記憶の隅に焼き付けられた浮苗と重なったのかもしれない。記憶はじめとする一枚の映像にその人の美意識が感じられる。『聖母帖』(1981)所収。(三宅やよい)




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