「週刊現代」の八百長報道。以前は「ポスト」のオハコだった。ルートは同じか。(哲




20070522句(前日までの二句を含む)

May 2252007

 竹皮を脱ぎて乳もなし臍もなし

                           鈴木鷹夫

や竹林は大昔から日本にあった景色だと思い込んでいたが、平安時代にはごく珍しいものだったようだ。箒や籠などの竹細工の技術は山の民によって伝承され、時間をかけて暮らしに欠くことのできない生活用品となった。また希少であった時代から、成長の早さや生命力、空洞になっている形状などから、竹には神秘的な霊力があると信じられてきたという。実際、初夏の光が幾筋も天上から差し込む竹林のなかで、ごわごわと和毛に包まれた筍が土に近い節から順に皮を脱ぎ、青々とした若竹となる様子は他の樹木などには見られない美しい過程だろう。狂おしいほど一途に竹が伸びる様子は、萩原朔太郎の作品『竹』にまかせるとして、掲句は滑らかな竹の幹を前に、乳房や臍を探すというきわめて俗な視線を持ってきている。これにはもちろん竹取物語の「筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人いと美しうて居たり」を意識し、かぐや姫の十二単を脱がせるようなエロティックな想像をかきたてる。古来より人々が竹に抱いている清らかな幻想を裏切るような一句であるが、作者の諧謔は〈今生は手足を我慢かたつむり〉〈吊されし鮟鱇何か着せてやれ〉にも見られるように、くすりと微笑させたのちであるからこその、消えぬ火種のような切なさが埋め込まれている。『千年』(2004)所収。(土肥あき子)




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