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May 1652007

 神輿いま危き橋を渡るなり

                           久米三汀

は夏祭の総称であり、神輿も夏の季語。他は春祭、秋祭となる。大きな祭に神輿は付きもの。ワッセワッセと勇ましい神輿が、今まさに町はずれの橋を渡っている光景であろうか。「危き橋」という対比的なアクセントが効いている。現今の橋は鉄やコンクリートで頑丈に造られているが、以前は古い木橋や土橋が危い風情で架かっていたりした。もともと勇ましい熱気で担がれて行く神輿だけれど、「危き橋」によっていっそう勢いが増し、その地域一帯の様子までもが見えてくるようである。世間には4トン半という黄金神輿(富岡八幡宮)もあれば、子どもたちが担ぐ可愛い樽みこしもある。掲出句は巨大な神輿だから危いのではない。危い橋に不釣合いなしっかりした神輿が、祭の勢いで少々強引に渡って行く光景だろう。向島に生まれ住んだ富田木歩の句に「街折れて闇にきらめく神輿かな」がある。今年の浅草三社祭は明後十八日から始まる。昨年は神輿に大勢の人が乗りすぎ、担ぎ棒が折れるという事故が起きた。そうした危険に加え、神輿に人が乗るのは神霊を汚す行為だ、という主催者側の考え方も聞こえてくる。今年はどういうことに相成るのか――。三汀・久米正雄は碧梧桐門。一高在学中に新傾向派の新星として俳壇に輝いた。のち、忽然と文壇に転じた。戦後は俳誌「かまくら」を出し、鎌倉の文士たちと句作を楽しんだ。「泳ぎ出でて日本遠し不二の山」三汀。句集に『牧唄』『返り花』がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


August 0182008

 泳ぎより歩行に移るその境

                           山口誓子

観写生といわれる方法から従来の俳句的情趣を剥ぎ取ったらどうなるかという実験的な作品。ものをそのまま文字に置き換えて「客観的に写生する」ことの論理的矛盾を嗤い言葉から発する自在なイメージを尊重するようにとの主張から「新興俳句」が出発したが、その「写生」批判は実は、従来の俳句的情趣つまり花鳥諷詠批判が本質だったと僕は思う。俳句モダニストたちの写生蔑視の中には誓子のこんな句は計算外だった。平泳ぎでもクロールでもいい。水の表面を泳いでいる肢がある地点で地につく。その瞬間から歩行が始まる。水中を縦割りにして泳者を横から見ている視点がある。水面は上辺。遠浅の海底が底辺。底辺は陸に向かって斜めに上がりやがて上辺と交わる。そこが陸である。肢は、二辺が作る鋭角の中を上辺に沿って移動し、ある時点で底辺に触れる。こんな「写生」をそれまでに誰が試みたろうか。ここにはまったく新しい現代の情緒が生み出されている。『青銅』(1962)所収。(今井 聖)


August 1982008

 本といふ紙の重さの残暑かな

                           大川ゆかり

さは立秋を迎えてから残暑と名を変えて、あらためてのしかかるように襲ってくる。俳句を始めてから知った「炎帝」という名は、火の神、夏の神、または太陽そのものを指すという。立秋のあとの長い長い残暑を思うと、炎帝の姿にはふさふさと重苦しい長い尻尾がついていると、勝手に確信ある想像していたのだが、ポケモンに登場する「エンテイ」は「獅子のような風格。背中には噴煙を思わせるたてがみを持つ」とされ、残念ながら尻尾には言及されていない。掲句は残暑という底なしの不快さを、本来「軽さ」を思わせる「紙」で表現した。インターネットから多くの情報を得るようになってから、紙の重さを忘れることもたびたびある現代だが、「広辞苑」といって、あの本の厚みを想像できることの健やかさを思う。ずっしりと思わぬ重さに、まだまだ続く残暑を重ね、本の重さという手応えをあらためて身体に刻印している。〈泳ぐとはゆつくりと海纏ふこと〉〈月朧わたくしといふかたちかな〉〈あきらめて冬木となりてゐたりけり〉『炎帝』(2007)所収。(土肥あき子)


July 0572009

 愛されずして沖遠く泳ぐなり

                           藤田湘子

っとも鮮烈で純粋な愛は片思いであると、先日韓国ドラマを見ていたら、そんなセリフが出てきました。愛に関する言葉など、どんなふうに言ったところで、身に惹きつけてみれば、長い人生の中でそれなりに頷かれる部分はあるものです。岸から遠くを、激しく腕を動かしながら、若い男が泳いでいます。見れば海岸には、思いを寄せる一人の女性の姿が見えています。遠くて表情まではわからないものの、友人と並んで、屈託なく笑ってでもいるようです。どんなにこちらが愛したところで、その人に愛されるとはかぎらないのだと、泳ぎの中で無残にも確認しているのです。夏の明るすぎる光を、いつもよりもまぶしく感じながら、どうにもならない思いの捨て場を、さらに探すように沖へ泳いでゆきます。夏休み、と聞くだけで妙に切なくなるのは、ずっとその人のことを思うことの出来る長い時間が、残酷にも与えられてしまうからなのです。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


July 2072009

 兵泳ぎ永久に祖国は波の先

                           池田澄子

索の便宜上、この句は夏の部「泳ぎ」に入れておくが、本質的には無季の句だ。「兵」が「泳ぐ」のは遊泳でもなければ鍛練などのためでもないからである。難破によるものか、あるいは撃沈されたのか。いずれにしてもこの兵(等)は母艦を離れることを余儀なくされ、荒波に翻弄されるように泳いでいる。必死に泳ぐ方向は、実際には不明なのだとしても、彼の頭の中では「祖国」に向いている。そして、その目指す祖国は絶望的に遠い。到達不能の彼方にある。そのようにして、かつての大戦では多くの兵が死んでいった。その無念極まる死を前にした彼らの絶望感を、「永久に祖国は波の先」と詠む作者の心情はあまりに哀しいが、しかしこれが現実だった。「祖国」とは、その地を遠く離れてはじめて実質化具体化する観念だろう。ましてや絶望の淵にいる人間にとっては、祖国は観念などではあり得ず、まぎれもない実体に転化するだろう。寺山修司の有名な歌「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」の祖国には、このような実質感ははじめから存在しない。このときに寺山修司はあくまでもロマンチックであり、池田澄子はリアリスティックである。今年もまた敗戦忌がめぐってくる。そしていまだに、かつての兵(等)は波の先の彼方に祖国を実感し、泳ぎつづけている。「俳句」(2009年7月号)所載。(清水哲男)


June 1762014

 でで虫の知りつくしたる路地の家

                           尾野秋奈

で虫、でんでん虫、かたつむり、まいまい、蝸牛。この殻を背負った生きものは、日本人にとってずいぶん親しい間柄だ。あるものは童謡に歌われ、またあるものは雨の日の愛らしいキャラクターとして登場する。生物学的には殻があるなし程度の差でしかないナメクジの嫌われようと比較すると気の毒なほどだ。雨上がりをきらきら帯を引きながらゆっくり移動する。かたつむりのすべてを象徴するスローなテンポが掲句をみずみずしくした。ごちゃごちゃと連なる路地の家に、それぞれの家庭があり、生活がある。玄関先に植えられた八つ手や紫陽花の葉が艶やかに濡れ、どの家もでで虫がよく似合うおだやかな時間が流れている。〈クロールの胸をくすぐる波頭〉〈真昼間のなんて静かな蟻地獄〉『春夏秋冬』(2014)所収。(土肥あき子)


July 1272014

 背泳の背のすべりゆく蒼き星

                           光部美千代

つて個人メドレーの日本記録を持っていたという知人と、スポーツジムのプールで遭遇したことがある。その時四十代であった彼はその歳なりの体型であったが、水に入った瞬間、これが同じ水かと思うほど水が彼を受け入れ、まさにすべるような流れるような滑らかさで、ほとんど手足を動かさないまま二十五メートルのプールを往復した。掲出句はその時の感動を思い出させる。あの背泳ぎならそのまま海へ、満天の星を仰ぎながらやがて海とひとつになりこの惑星の一部になってしまいそうだ。〈いつまでもてのひら濡れて蛍狩〉〈海底に火山の眠る夏銀河〉。ときに繊細にときに大胆に、惹きつけられる句の多いこの句集が遺句集とはあらためて残念に思う、合掌。『流砂』(2013)所収。(今井肖子)


July 2772015

 背泳ぎにしんとながるる鷹一つ

                           矢島渚男

っと日常意識から切り離される時間。そこでは忘我の境というのか、自分がいったい世界のどのあたりにいるのかなど、全てが静かな時間のなかに溶け込んでしまう。このようないわば「聖」なる時間は、宗教的なそれとも違って、当人が予期しないままに姿を現す。偶然といえば偶然。こうした情況は、誰の身辺にも身近に起きるようだ。そんな時間を、たとえば石川啄木は次のように詠んでいる。「不来方の お城の草に寝転びて 空に吸はれし十五の心」。いかにも啄木らしい味付けはなされているものの、これもまた偶然に得られた「聖」なる時間のことだ。当人には何の意図もないのに、世界の側がさっと差し出したてのひらに、否も応もなくすくいあげられてしまうような至福の刻。句で言えば、上空の鷹はそんな時間への案内人だ。なんという不思議さ。とも感じないやわらかな神秘の刻。ながれる鷹を追う目は、無我のまなざしである。私自身にも、このような体験はある。中学生のころ、学校帰りにひとり寝ころんだ山の中腹では、そんなときに、いつも郭公が鳴いていた。その後郭公の声を聞くたびに、私のどこかに、この「聖」なる時間が流れ出す。『天衣』所収。(清水哲男)


July 0972016

 仰向きて泳げば蒼き天深し

                           大輪靖宏

年ほど前に観たアニメ映画『サカサマのパテマ』を思い出した。重力が地上と真逆の方向に働いている地下の世界に住む少女パテマが、とあるきっかけで地上へ堕ちて?しまうところから始まってゆく物語だ。地上に出ても、パテマ自身には空に向かって重力が働いているので、何かにつかまっていないと永遠に深い空へ落ちていってしまう。高所恐怖症の筆者は画面を見ながら想像するだけで足がむずむずしたが、よくできているおもしろい映画だった。掲出句の作者はおそらく海に浮かんでゆっくり泳いでいるのだろう。背中の下は海の底、浮力で少し軽くなった体にゆるやかな重力がかかり、視線の先には真夏の青空が広がっている。天が深い、という表現には、海に自重をあずけるうちに天地が曖昧になり、空の彼方の宇宙空間にまで思いが飛んでいくような不思議な感覚を覚える。『海に立つ虹』(2016)所収。(今井肖子)




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