はや立夏。まとまりのつかぬまま大型連休も終わる。まあ休みなんてこんなものか。(哲




20070506句(前日までの二句を含む)

May 0652007

 路地に子がにはかに増えて夏は来ぬ

                           菖蒲あや

年詩を書いていると、あらかじめ情感や雰囲気を身につけている言葉を使うことに注意深くなります。その言葉の持つイメージによって、作品が縛られてしまうからです。その情感から逃れようとするのか、むしろそれを利用して取り込もうとするのかは、作者の姿勢によって違います。ただ、詩と違って、短期勝負の俳句にとっては、そんな屁理屈を振り回している暇はないのかもしれません。もしも語が特別な情をかもし出すなら、それを利用しない手はないのです。「路地」という言葉を目にすれば、多くの人は、共通の懐かしさや温かさを感じることが出来ます。掲句を読んで、はっきりとした情景が目に浮かぶのは、この語のおかげなのだろうと思われます。細い道の両側から、軒が低くかぶさっています。その隙間から初夏の空が遠く覗いています。狭い道端には、乱雑に鉢植えや如雨露(じょうろ)が置いてあり、地面にはろうせきで描かれた線路のいたずら書きや、石蹴りで遊ばれたあとの丸や四角が描かれています。急に暑さを感じた昼に、引き戸を開けて道に出れば、どこから湧き出してきたのか、たくさんの子どもたちが走り回っています。植物がその背丈を伸ばすように、自然の一部としての「子ども」という生き物が増殖して、家から弾き飛ばされてきたかのようです。ぶつからないように歩くわたしも、今年の夏が与えられたことを、確実に知るのです。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます