中日はやっと勝ったが、阪神は泥沼の5連敗。人生を野球にたとえたくもなりますよ。(哲




20070504句(前日までの二句を含む)

May 0452007

 しまうまがシャツ着て跳ねて夏来る

                           富安風生

快なリズム、童心が微笑ましくも楽しい。こういう句はどうやったらできるかな。俳句に過剰な期待をかけないことかもしれない。「右手で自己の人間悪、左手で社会悪と闘う」そんな内容を楸邨は句集『野哭』の後記で述べている。そういう気張り方では、こういう句はできない。状況を見遣り自己を見つめ追いつめ、対象の実相に肉薄しようとする。この句は楸邨の作り方と対極に見える。僕は後者の方の傾向を選択したから、まずその伝でいくわけだけど、だからこそこういう傾向の魅力に憧れるところがある。求心的傾向がときにスベッテしまうのは、盛り込みたい内容がふくらみすぎてひとりよがりになってしまい、混沌とし過ぎて伝達性が失われてしまうから。逆にこういう句は類想陳腐の何百もの駄作の果てに得られる稀有の一句だろうと思う。平明と平凡は紙一重なのだ。眉間に皺を寄せて苦吟しても、口をぽかんと空けて小学校低学年になりきっても、秀句にいたる道はどっちもどっちなのだから俳句は難しい。ところでこの句の「来る」は「きたる」。最近は歴史的仮名遣い派でも「来たる」と表記する場合が多い。下の五音だから「来る」と書いても読者はかならず「きたる」と読んでくれる、という信頼感が無いんだろう。そういう点にも歴史的仮名遣いの崩壊は着実に進行していると思わざるを得ない。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)




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