都知事選。投票したい人物がいない。かといって一票を無駄にするのもシャクだ。(哲




20070323句(前日までの二句を含む)

March 2332007

 燈を遮る胴体で混み太る教団

                           堀 葦男

季の句。映像的処理は遠近法の中で行われている。そういう意味ではこれも「写生」の句だ。まあ、「太る」の部分は観念ではあるけれど。オウム真理教の事件はまだ記憶に新しい。麻原彰晃が選挙に出ていた頃、同僚の高校講師が、オウムの教義に感心したと話していたのを思い出す。「宇宙の気を脊椎に入れると浮遊できるってのは説得力あるんですよ」この人、英語を教えてたけど、自分で修業して僧侶の資格を取った真面目を絵に描いたような人だったな。俳句はあらゆる「現在」を視界に入れていい。百年経っても変わらない不変の事象を詠もうとする態度はほんとうに普遍性に到る道なのだろうか。一草一木を通して森羅万象を詠むなんて、それこそ胡散臭い宗教の教義のようだ。「現在」のうしろに普遍のものを見出そうとするならまず「現在」に没入する必要がある。その時、その瞬間の「状況」すなわち「私」に拘泥しない限り時代を超えて生き抜いていく「詩」は獲られない。五十年以上前のこの作品が今日的意味を持って立てる所以である。そのとき季語はどういう意味を持つのだろうか。「写生」と季語とは不可分のものだろうか。子規の句の中の鶏頭や糸瓜が一句のテーマであったかどうかを考えてみればわかる。この句、「燈を遮る胴体で混み」の「写生」の角度が才能そのもの。平畑静塔『戦後秀句2』(1963・春秋社)所載。(今井 聖)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます