昨日の誕生日に際して、たくさんのお言葉をいただきました。ありがとうございました。(哲




20070216句(前日までの二句を含む)

February 1622007

 骰子の一の目赤し春の山

                           波多野爽波

規の提唱した「写生」と虚子が言った「花鳥諷詠」の違いは、前者が「写すこと」の効果を提唱したのに対して、後者は俳句的情緒を絶対条件としたこと。だから後者は「写生」ではなくて、俳句的ロマンを旨としたと言った方がいい。いわゆる神社仏閣老病死がその代表的な例。ところが虚子の弟子にも変人は出るもので、虚子先生が情緒を詠めと言っておられるのに、情緒などお構いなしに、しっかりと「写す」ことを実行した俳人がいる。高野素十とこの爽波がそれである。作る側が情緒を意図せずとも、「もの」をそこに置けば、勝手に「もの」が動いて「感動」を作り出す。「もの」の選択に「俳句的素材」などという判断は不要、それが俳句という短詩形の特殊な在り方を生かす方法、つまり「写生」であると理解するに到った変り種である。その理屈で出発すると、論理は、では「写す」ことと季語はどう関わるのかというところに行かざるを得ない。季語と写生は必然的な結びつきなのかという疑問も出てくる。しかし、素十も爽波も季語は捨てない。「もの」の選択の範囲を広げた分、情緒を季語に依存しようとしたのか。骰子(サイコロ)の一の目が赤く大きく目を瞠り、そのイメージに春の山の景を被せる。「赤し」と春が色彩として同系。サイコロの存在感が山と呼応する。爽波のような反情緒の「もの」派も、そこのところで「季語の恩寵」を言うんだろうなあ。『骰子』(1986)所収。(今井 聖)




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