20061225句(前日までの二句を含む)

December 25122006

 安々と海鼠の如き子を生めり

                           夏目漱石

石の妻・鏡子は一度流産している。この句はその後に長女・筆子を生んだときのもので、作者の安堵ぶりがうかがえる。人間の子を「海鼠(なまこ)」みたいだとは、いくら何でもひどいじゃないか。そう思いたくもなるのだが、このときの漱石は気もそぞろ。今度は無事に生まれてくれよと、生まれるまで落ち着けなかった。当時は自宅出産だから、家の中を襖越しにただうろうろするばかりの男としては、元気な産声を耳にし、生まれたばかりの赤子を見せられて、ほっとしたあまりに思わずも本音が出たというところだろう。人間、安心すると、「なんだ、たいしたことなかったじゃないか」との安堵感から、憎まれ口の一つも叩きたくなるものなのだ。言い換えれば、普段通りの心の余裕のある顔つきで表現したくなってしまう。この句はそういう産物で、それまでの狼狽ぶりが書かれていないだけに、かえってそれをうかがわせる何かがあるではないか。漱石先生の頭は隠されているけれど、尻は立派に出てしまっているのだ。今日はキリストの誕生日。誰もそんな想像はしないだろうが、彼もまた、海鼠のように生まれてきたのかしらん。ところで「海鼠」は冬の季語だが、筆子の誕生は五月だった。したがって揚句は夏の句ないしは無季に分類すべきなのだろうが、歳時記の便宜上「冬季」に置いておきたい。この句に限らず、歳時記の編纂には、しばしばこうした悩ましさがつきまとう。坪内捻典・あざ蓉子編『漱石熊本百句』(2006・創風社出版)所収。(清水哲男)




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