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December 19122006

 猪屠るかはるがはるに見にゆきぬ

                           大石悦子

ろそろ年賀状を考えなければならない時期である。毎年のように干支を年賀状で意識させられることもあり、十二支の動物たち、ことに自分の干支にあたる動物にはどことなく愛情を感じる人も多いだろう。来年の干支である猪は、昔から田畑を荒らす害獣でありながら、一方で貧しい村の飢えを満たす益獣でもあり「恩獣」という言葉も見られる生活に密着した動物であった。歳時記のなかでは、晩秋に山から下りてくる生きものとしての猪は秋、身体を芯からあたためる薬喰いの一種としての猪料理は冬の季語として分類されている。大きなもので百キロ近い獣が横たわり、村の男たちの手で解体され、生き物が肉塊となっていく行程はさぞや圧巻だろう。その現場をおそるおそる覗く者は、刃物をふるう一種の興奮状態からやや離れた位置で猪と対峙しているように思う。屍となり横たわる猪の宙を見据える目を、まざまざと感じてしまう距離である。同書に収められた〈闇汁に持ち来しものの鳴きにけり〉となると、その持参された「鳴く」ものに傾く哀れは一層濃くなる。万葉集巻16-3885にある「乞食者(ほかひひと)の詠」は、生け捕られた鹿が、その肉のみならず耳も爪も肝も加工され献上されていく様子を事細かに詠った長歌だが、最後に「右の歌一首は鹿の為に痛(おもひ)を述べてよめり)」の一文が添えられる。もし、掲句に添え書きがあるとすれば、それはやはり「猪のために痛みを述べて詠めり」だろうと思われる。『耶々』(2004)所収。(土肥あき子)


February 1022010

 猪突して返り討たれし句会かな

                           多田道太郎

太郎先生が亡くなられて二年余。宇治から東京まで、熱心に参加された余白句会とのかかわりに少々こだわってみたい。「人間ファックス」という奇妙な俳号をもった俳句が、小沢信男さん経由で一九九四年十一月の余白句会に投じられた。そのうちの一句「くしゃみしてではさようなら猫じゃらし」に私は〈人〉を献じた。中上哲夫は〈天〉を。これが道太郎先生の初投句だった。その二回あと、関口芭蕉庵での余白句会にさっそうと登場されたのが、翌年二月十一日(今からちょうど十五年前)のことだった。なんとコム・デ・ギャルソンの洋服に、ロシアの帽子というしゃれた出で立ち。これが句会初参加であったし、宇治からの「討ち入り」であった。このときから俳号は「道草」と改められた。そのときの「待ちましょう蛇穴を出て橋たもと」には、辛うじて清水昶が〈人〉を投じただけだった。「待ちましょう」は井川博年の同題詩集への挨拶だったわけだが、博年本人も無視してしまった。他の三句も哀れ、御一同に無視されてしまったのだった。掲出句はその句会のことを詠んだもので、「返り討ち」の口惜しさも何のその、ユーモラスな自嘲のお手並みはさすがである。「句会かな」とさらりとしめくくって、余裕さえ感じられる。句集には「余白句会」の章に「一九九五年二月十一日」の日付入りで、当日投じた三句と一緒に収められている。道草先生の名誉のために申し添えておくと、その後の句会で「袂より椿とりだす闇屋かな」という怪しげな句で、ぶっちぎりの〈天〉を獲得している。『多田道太郎句集』(2002)所収。(八木忠栄)


November 04112014

 まだ駆くる脚の構へに猪吊らる

                           谷岡健彦

りで捕らえた獣を運ぶため、前脚、後脚をそれぞれ縛り、運搬用の棒を渡す。まだほのかに温みの残っている猪が、人間の足並みに合わせてゆらゆらと揺れる。大きな獲物を担いでいくのは大層難儀だが、山中のけわしい道では人力に頼るほかはない。四肢を持つ獣が運ばれるためにもっとも適したかたちが、天地は逆でこそあれ、野を駆ける姿と同じであることが、一層哀れを誘う。猪へと送る作者の視線は狩る側のものではないが、また過剰な憐憫を溢れさせた傍観者のものでもない。一撃さえ避けられれば、昨日と同じ今日が続いていたはずの猪を前に、それはまるで命を頂戴するための儀式でもあるかのようにも見えてくる。〈風船を身体浮くまで買へと泣く〉〈輪唱の焚きつけてゆくキャンプの火〉〈猫に店任せつきりの暦売〉『若書き』(2014)所収。(土肥あき子)




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