20061213句(前日までの二句を含む)

December 13122006

 滾々と水湧き出でぬ海鼠切る

                           内田百鬼園

鼠(なまこ)から滾々(こんこん)と水が湧き出る――というとらえ方はあっぱれと舌を巻くしかない。晩酌をおいしくいただくために、午後からは甘いものをはじめ余分なものは摂らずに過ごそうと、涙ぐましい努力をしていたことを、百鬼園はどこかで書いていた。本当の酒呑みとはそうしたものであろう。午後の時間に茶菓を人に勧められて断わるのも失礼だし、かといって・・・・と嘆く。そんな百鬼園が冬の晩酌の膳に載せんとして海鼠に庖丁を入れた途端に、たっぷり含まれた冷たい水がドッと湧き出る。イキがいいからである。冬は海鼠をはじめ牡蠣や蟹など、海の幸がうまい時季。海鼠酢はコリコリした食感で酒が進む。百鬼園先生のニンマリとしてご満悦な表情が目に見えるようだ。この句は明治四十二年「六高会誌」に発表された。「滾々」とはいささかオーバーな表現だが、ここでは句の勢いを作り出していて嫌味がない。冴えていながら、どこかしら滑稽感も感じられる。最初から「滾々・・・」という句ではなかった。初案は「わき出づる様に水出ぬ海鼠切る」だった。「わき出づる様に水出ぬ」では説明であり、「水」は死んでしまっているから、海鼠もイキがよろしくない。しかも「出づる」「出ぬ」の重なりは無神経だ。思案の後「滾々」という言葉を探り当てて、百鬼園先生思わず膝を打ったそうである。志田素琴らと句会「一夜会」をやりながら、独自のおおらかな句境を展開した。しかし、本人は当時の文壇人の俳句隆盛に対しては懐疑的で、「文壇人の俳句は、殆ど駄目だと言って差支えないであろう」と言い、「余り流行しないうちに下火になる事を私は祈っている」とも言い切るあたりは、まあ、いかにもこのご仁らしい。ちなみに漱石や龍之介の俳句に対する百鬼園の評価は高くはなかった。『百鬼園俳句帖』(ちくま文庫)所収。(八木忠栄)




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