20061113句(前日までの二句を含む)

November 13112006

 焚火のそばへ射つてきた鴨

                           北原白秋

の農繁期を過ぎると、どこからともなく猟銃を射つ音が聞こえはじめる。少年期を過ごした村では、犬を連れた男たちが野ウサギなどを射つために、山に入っていく姿が日常的に見られた。だから、村では猟銃の発射音が聞こえてきても、誰もほとんど気になどはとめない。音のした方角を、ちらっと一瞥するくらいだった。獲物を提げた男が山をおりてきても、同様に誰も何も言わない。やはり、一瞥をくれるのみなのであった。揚句を読んで、そんなことが思い出された。鴨猟の仔細は知らないが、情景としては早朝の大きな川のほとりで、鴨射ちに来た人たちが暖を取るために焚火を囲んでいるのだろう。その焚火の輪の外から、影のように近づいてきた男が、獲物をどさりと置いた図だ。しかし、そのおそらくは見事な獲物にも、一瞥するだけで誰が何を言うでもなく、みな寡黙に手をあぶったりしているのだ。無愛想というのではなく、それは猟仲間の一種の仁義から来ているように思える。いちはやく大物を射止めた者は喜びを殺し、それに羨望する者もおのれのはやる心を殺すのだ。そうすることで両者の矜持は平等に保たれるわけで、見方によっては鮮烈なこの情景も、仁義の支えのためにごく日常的なさりげない空間と化していく。この句の字足らずは、そのような仁義の世界をとらえるための技法だと読んだ。作者がちらりと獲物の鴨を一瞥したところで、湧いてくる情念を抑えるように目をそらした感じがよく出ている。白秋にあまり優れた句は認められないが、この句はその意味で、作者にも快心の作だったのではあるまいか。『竹林清興』(1947)所収。(清水哲男)




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