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September 2892006

 秋茄子を二つ食べたるからだかな

                           栗林千津

さが身上の紫紺の秋茄子をいただいたからだがどうだと言うのか。内容だけみるとただごとに近いが、「からだかな」と置かれた強い切れは、食べたからだと食べられた秋茄子のその後を想像させる。何回か読み下してみると、ア音の多い明るい響きときっぱりした断定が消えた二つの秋茄子の輪郭をかえって鮮明に浮かび上がらせるようだ。「(動植物)を写生して親しむのではなく、対象に同化し、ときにそれらに変身してしまう」坪内稔典は句集の解説で千津の俳句について述べている。掲句の場合だと千津のからだが食べたはずの二つの秋茄子になって揺れ出すのかもしれない。彼女にとっての秋茄子は自分のからだと等量の存在なのだろう。同じ作者の句に「地続きに火噴く山ありひきがえる」「極寒期うまの合ひたる鮫とウクレレ」などがある。動植物を人になぞらえたり、対象に距離を置いて描写するのではない。秋茄子や、ひきがえると同じ次元に身を置いて、彼らと親しみ、入れ替わる通路を千津は見出したにちがいない。50歳半ばから俳句を始めた彼女は92歳で没するまで動植物との交流を中心に、日常の時空間から少しずれた俳句を作り続けた。『栗林千津句集』(1992)所収。(三宅やよい)




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