北京でも金木犀が咲いていた。が、花は少なく、手で枝を引き寄せて嗅ぐ人を散見。(哲




20060924句(前日までの二句を含む)

September 2492006

 露の身の手足に同じ指の数

                           内山 生

たしたちは、自分の姿かたちというものを、日々気にしているわけではありません。大切なのは、手が、必要とするものを掴んだり運んだりすることができるかどうかなのであって、手に何本の指が生えているかということではありません。そんなことをいちいち考えている暇はないのです。あたえられたものを、あたえられたものとして、この形でやってきたのだから、それを今更どうしようもないわけです。ですから、自分の身体の中に、どんな矛盾や驚きがあっても、気づこうとしません。悲しくも、それらを含めてのいきものだからです。掲句、「露の身」とは、露のようにはかない身体ということでしょうか。まさに、露とともに流れ去ってしまうような不確かな肉体を携えて、生きているということです。この身体で自動改札を通り、この身体で夕日を浴びているのです。作者が気づいたのは、そのはかない身体の先端に位置する手足の指の数が、同じだということです。身体のはかなさが先端まで行って、行き着くところが上も下も、10本に枝分かれしているということです。枝分かれした先を見つめて作者が感じたのは、結局、わが身のいとおしさではなかったのかと思われます。その身をやわらかく抱きしめようとして動くのは、やはり自分の、腕だからです。『現代俳句歳時記』(1993・新潮選書)所載。(松下育男)




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