毎年のことながら、甲子園大会が終わると秋色が目立って濃くなってきますね。(哲




20060822句(前日までの二句を含む)

August 2282006

 踊らねば只のししむら踊りけり

                           行方克巳

つかは見たいと願っている盆踊りも、岐阜郡上八幡の郡上踊りが終わり、秋田羽後の西馬音内盆踊りが終わり、富山八尾のおわら風の盆を残すばかりとなった。結局今年もまた、どの思いも叶わぬまま夏が終わる。しかし、元来盆踊りとは、盂蘭盆の行事であり、死者を供養するためのものであることを考えると、ゆかりのない土地の盆踊りを「見に行く」とはたいへん奇妙なことにも思う。踊りのさなか、風土はそこに暮らす人間を固く結びつけ、一方日常を遠くに引き離していく。句にある「ししむら」とは、肉の塊のことである。踊らぬ手足は単なる肉塊なのだという。この乱暴な断定が、自分の身体をことさら他人事のように眺め、また目の前に躍動する四肢の魅力をはちきれんばかりに輝かせる。踊り続けることで、肉体はますます個人から離れ、今やしなやかに呼吸する風土の一部となっている。しかし、この甘美な闇をさまよう肢体は、翌朝にはまた綿々と続く日常を歩く、ただの肉塊に戻らねばならない。「踊りけり」と強く言い切ることで、心のどこかで願う狂気を振り払い、わずかに日常との接点を保ちつつ踊り続けるのである。『祭』(2004)所収。(土肥あき子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます