関東甲信、東北南部が梅雨入りと気象庁。やっぱり来たか。しとしとと降り続いています。




20060609句(前日までの二句を含む)

June 0962006

 走り去る蜥蜴の視野を思ひをり

                           北野紙鳥

語は「蜥蜴(とかげ)」で夏。私の子どものころには、庭先などによく出没したものだが、近年はとんとお目にかからない。動きは実に俊敏で、しげしげとと眺めたことはないけれど、その目はどこか冷たいものを孕んでいるように見えた。と言っても、ずる賢そうな目ではなく、とても怜悧な目という印象だ。「視野」の範囲は視線からの角度で表し、これはあくまでも人間の場合だが、片方の目での視野は上方60度、内方60度、下方70度、外方100度だという。同じ角度で、上下左右がまんべんなく見えているわけではないのである。また、視野の広さは色によっても異なり、白がもっとも広く、青、黄(赤)、緑の順に狭くなるのだそうだ。となれば、蜥蜴の視野はどうなのだろうか。人間よりもよほど眼球が左右に飛び出ているので、それだけ人よりも視野は広いのだろう。で、例によってネットで調べてみたら、蜥蜴は両目ともに同じ物が見える範囲こそ前方18度と数値は低いが、眼球が飛び出しているおかげで、片目だけで見える範囲を含めると、なんと280度が見えている。つまり、蜥蜴に見えない部分(いわゆる「死角」)は真後ろの80度ほど(比べて、人間の死角は152度とかなり広い)だから、「走り去る」方向によっては、句の作者も蜥蜴の視野にはちゃんと入っていることも考えられるのだ。仮に蜥蜴のような目を持つピッチャーがいるとしたら、心持ち首を左右に振るだけで、二塁ランナーが見えてしまう理屈である。もっとも、これは視力が人間並みかそれ以上だったと仮定しての話だが、調べてもそのあたりのことはわからなかった。等々と、つい掲句につられて私も「蜥蜴の視野」をいろいろ想ってしまったけれど、この句の良さは、読者にまさにそうした想いをうながす点にあるのだと思う。この句を読まなければ、私は一生、蜥蜴の視野などに想いをめぐらすこともなかっただろう。不思議な発想の句も、また楽し。俳誌「梟」(2006年6月号)所載。(清水哲男)




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