「これで当分ネタには困らない」と言ったコメンテーターがいたそうな。失言だが本当だ。




20060607句(前日までの二句を含む)

June 0762006

 いざる父をまだ疑わぬ涼しき瞳

                           花田春兆

語は「涼し」で夏。作者は脳性マヒによる重度の運動障害機能障害があり、歩くことができない。車椅子での生活を送っている。したがって、家の中ではいざって移動するわけだが、まだ幼い我が子はそんな父の姿を少しも疑わず、まっすぐに「涼しき瞳(め)」を向けてくるのだ。その、いとおしさ……。この句を読んで、私はすぐパット・ムーアというアメリカ女性の書いた『私は三年間老人だった』の一場面を思い出した。その目的は省略するが、彼女は二十代のときに三年間、老女に変装しては表に出て、人々の反応を調査観察するということを試みた。その反応事例は興味深いもので、年齢によって明らかに差別的な態度をとる店員だとか、ハーレムで襲ってきた少年たちの執拗な暴力のことだとか、とにかく高齢だということだけで、世の中には理不尽なふるまいをする人々の多いことが書かれている。そんな流れのなかで、老女姿の彼女はフロリダの浜辺で、一人で遊んでいた六歳の少年と出会う。「こんにちは」と声をかけると、彼も元気よく「こんにちは」と答えた。少し立ち話をしているうちに、二人はすっかり仲良くなり、いっしょに貝探しを楽しんだりしたのだった。そして別れ際、彼は集めたたくさんの貝のなかから一つを取り出した。「これあげる。さっきこの貝、好きだって言ったでしょ」。「『ありがとう』私はそう言って、かがんで貝を受け取ろうとした。すると、彼は背伸びして私の頬にキスした。/「じゃあね」/彼は大きな声でそう言い、くるっと向きを変えると砂の上を走って行った。浜辺の端でもう一度振り返ると、さよならと手を振った」。そして、彼女は書いている。「六歳の友達にとって、若いとか年寄りだとかということは関係ないのだ。それに、いじめようなどという気持ちや思いこみもないし、年齢が障害になることもまったくない。私たちの間にはたしかに友情が生まれ、笑い合い、貝がたくさん転がった浜辺で二人の時間を過ごした。/長く疲れた一日の終わりに、私の心にこれは甘美な蜜であった」と。掲句の子のように、この子の瞳もきっと涼しかったに違いない。句は「俳句界」(2006年6月号)の花田春兆と佐高信の対談見出しより引用した。(清水哲男)




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