八十八夜もいつしか過ぎ立夏も間近。私は蟄居してますが、楽しい連休をお過ごし下さい。




20060504句(前日までの二句を含む)

May 0452006

 生えずともよき朝顔を蒔きにけり

                           高浜虚子

語は「朝顔蒔く」で春、「花種蒔く」に分類。朝顔は、八十八夜の頃が播種に最適とされる。ちょうど今頃だ。昨年は蒔くのを忘れたので、今日あたり蒔こうかと思っている。といっても、土を選んで買ってきたりするのは面倒なので、垣根のわきに適当に蒔くだけだ。べつに品評会にでも出すわけじゃないから、その後の世話もほとんどしないはずである。まさに掲句のごとく「生えずともよき朝顔」というわけだ。虚子の気持ちは、一応は蒔いておくけれど、生えなければそれでもよし、生えてくれれば儲けものといったところだろう。まことにいい加減ではあるが、期待しないその分だけ、生えてきて花が咲いてくれたときには、とても嬉しい。内心では、ちゃんと生えてほしいのだ。でも、はじめから期待が高過ぎると、うまく育たなかったときの落胆度は大きいので、こういう気持ちでの蒔き方になったということだろう。うがった見方をしておけば、種蒔きだけではなく、このような気持ちでの物事への処し方は、虚子という人の処世術全般に通じていたのではないかと思う。断固貫徹などの完璧主義を排して、何事につけても、いわば融通無碍に、あるいは臨機応変に対応しながら生きてゆく。桑原武夫の第二芸術論が出て来たときに、「ほお、俳句もとうとう『芸術』になりましたか」とやり過ごした態度にしても、その一つのあらわれだったと見てよさそうだ。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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