蛙の句のことを書いたが我が家の近辺には全くいないようだ。何年も鳴き声を聞いてない。




20060419句(前日までの二句を含む)

April 1942006

 覚めきらぬ者の声なり初蛙

                           相生垣瓜人

語は「初蛙(はつかわず)」で春、「蛙」に分類。今年はじめての蛙の声を聞いた。その声が、まだ完全には眠りから覚めていない人の声と同じように聞こえたと言うのである。言われてみれば、初蛙の声はなんだかそのようでもあり、あれが寝ぼけ声だとすると、鳴いている姿までが想像されて、なんとなく可笑しい。この句を紹介した本(『忘れられない名句』2004)のなかで、福田甲子雄は「こんな発想はなかなか初蛙の鳴き声を聞いても思いに至らない」と書き、句の説得性については「声なり」と断定して、「ごとし」とか「ような」といった直喩の形式をとっていないからだと説明した。その通りであって、この断定調が作者独特の感性に客観性を持たせ、瓜人ワールドとでも言うべきユニークな世界を構築している。私がそう聞きそう思ったのだから、そのままを書く。下手に他人の顔色をうかがったりはしない。だから逆に、その理由を書かなくてもすむ短詩型では読者を納得させ得るのだろう。同書で福田も引用しているが、能村登四郎はこのような瓜人ワールドを指して、「瓜人仙郷とよばれる脱俗の句境で、いうなれば東洋的諦観が俳句という寡黙な詩型の中に開花した独自の句風」と言っている。わかったようなわからないような説明だが、要するにみずからの感性に絶対の確信を持ってポエジーを展開したところに、作者最大の魅力があらわれているのだと思う。『微茫集』(1955)所収。(清水哲男)




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