セ・ファンも、そろそろムズムズ。先発投手予想も楽しみの一つ。阪神は井川で大丈夫か。




20060328句(前日までの二句を含む)

March 2832006

 学生は今日で終りといふ花見

                           阪西敦子

語は「花見」。まだ満開ではないが、東京の桜の名所にはずいぶんと人が出ているようだ。ピークは、この週末だろう。近所の井の頭公園でも、よほど早く行かなければ場所は取れない。地元にいながら、悠々と見物するわけにはいかないのである。しかし、なぜ人は必死に場所取りまでして花を見るのだろうか。最近出た現代詩文庫『続続辻征夫詩集』を読んでいたら、なかに「花見物語」というエッセイがあって、あるとき谷川俊太郎にこう話したことが書いてあった。「今年の春はぼく、英国大使館の前の濠端で花見をしたのですが、いいですね、花見って、なぜみんな花見をするのか、はじめてわかった」。「ふーん、どうしてなの?」と谷川さんが聞くと、辻征夫が答えて曰く。「あのね、人間はね、永遠に生きるものじゃないからです。それがはじめてわかった」。「年齢のせいだよそれは!」と谷川さんが笑い,当人も「まさにそのとおり」と笑ったとそれだけの話であるが、私はこの件りにしいんとした気持ちがした。辻征夫に死なれたこともあるけれど、花見の理由を彼はそのときに「人間は永遠に生きるものじゃないからだ」と、理屈抜きに実感したのだと思う。唐詩の一節「年年歳歳花相似、歳際年年人不同」はあまりに有名だが、この詩全体は説教じみていていけない。そんな理屈を越えて、辻征夫は古人の感じたエッセンスのみを、濠端の花見ですっと直感的に掴んだのではあるまいか。掲句の作者はそういうことに気づいてはいないのかもしれないが、「学生は今日で終り」と詠む心持ちのなかに、つまりは人間のはかなさに通じる何かが掴まれてあると、私には思われる。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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