東京大空襲。あの焼け焦げたフライパンのような夜空を眺めていたチビ助も68歳になった。




20060310句(前日までの二句を含む)

March 1032006

 春昼のわれを包むに足りる紙

                           ふけとしこ

語は「春昼」。春の昼は、のんびりと明るい。それにしても大きな「紙」だなと思い、句だけを見て誇張表現だろうと受け取りかけたが、作者の弁を読んだら実物大であった。「この句は解いた包装紙のあまりの大きさに呆れて眺めていてできたものだった……」。いったい、何が包まれていたのだろうか。包まれている物を知っている作者が驚いているくらいだから、過剰包装ならぬ余剰包装ということになるのか、あるいは包んだ側の親切丁寧さの表れであるのか。それはともかく掲句の面白さは、この途方もない大きさの紙を前にした作者が、呆れ返りつつも「われを包む」と発想したところにある。これが自分ならどう反応するだろうかと想像してみて、私には自分を包むという考えはまったく閃かないだろうと思った。そしておそらく、このいわば咄嗟の発想は女性独特の感性から来ているのではないのかとも。物が包装紙だから言うのではないけれど、女性が衣服を身に着けるときの根底には、半ば無意識にせよ、身体を「包んで装う」ことにあるように思われるからだ。男の場合には、まずそれがない。男は「包む」というよりも「纏(まと)う」のである。たとえネクタイで首を締め付けようとも、身体を包んでいるという意識は皆無だ。むしろ身体を外界に曝している無意識の意識が強いので、着ている物がバラバラにならぬよう、とりあえず喉元でひと纏めにしているとでも言えば良いであろうか。それこそ誇張した言い方をしてしまったが、何気ないところに男女の違いが現れる例としても、興味深い一句であった。俳誌「船団」(第68号・2006年3月)所載。(清水哲男)




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